心意雑感 

サイコロネットメールマガジンに掲載された、心に関する雑感です。

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No141〜No150

「最近の事件に思う5」   平成18年11月7日 第141号に掲載

 今度は、必修漏れがあった高校の校長が自殺するという事件がおこりました。自殺した校長は、必修漏れそのものの存在は受け容れていたのに、それが発覚してマスコミから報道されたり、保護者から突き上げを受けるという状況は受け容れられなかったのでしょう。本人はそのような状況をいじめなどと表現していませんが、とてもつらい状況だったのだろうと思います。

 そして今日は、いじめが原因で自殺することを予告する手紙が文科省に届いたという報道がありました。まだ、本当なのかいたずらなのかはわかりませんが、いじめが社会的な問題として採り上げられている今、文科省も放ってはおけず公表に至ったのでしょう。ただ、この問題には、いじめという問題の他に、罪悪感に訴えた要求(行き過ぎれば脅迫)という要素があることを忘れてはならないでしょう。

 さて、個々の問題についてはさらに深く掘り下げる必要があると思いますが、今回はこれらの問題から何を学んだらいいのかという問題提起をして一旦終わりたいと思います。では、今まで採り上げてきた、暴言を吐かれて自殺した母親、いじめによる小中学生の自殺、必修漏れ高校の校長の自殺、いじめを予告する手紙からどんなことがわかるでしょうか。

 私自身は、暴言やいじめによって自殺してしまう人がいること、社会的にはいじめと認められていなくても、本人が苦にして自殺してしまうことがあること、自殺というのは、つらい状況からの逃げだけでなく、相手の罪悪感に訴えることが可能だということ、などを事件から感じ取れました。そして、学校、教育委員会、国が「いじめはあってはならないこと」と考えており、それがマイナス方向に働いているということが、報道を通してわかったことです。

 学校でいじめが起こったとき、「いじめはあってはならない」ということをプラス方向で考えるのであれば、いじめの現状をしっかりと認識し、少しでもいじめを減らすにはどうすればいいかという発想になりますが、マイナス方向で働くと、学校で現実にいじめが起こっても、「いじめはあってはならない」ということが、「いじめではない」ことにしようという思いになり、「いじめはなかった」ということにしてしまいます。必修漏れ問題もまったく同じ理屈で、このようなマイナス思考の結果、隠蔽体質が生まれているのです。

 自殺を筆頭として個人の悩みの多くはマイナス思考から生まれていますが、社会的な問題の多くも社会のマイナス思考から生まれているように思います。学校や教育委員会、国には歪んだマイナス思考が渦巻いており、様々な問題、悩みを生み出しています。今後、これらのマイナス思考を指摘し、一つ一つどのように考えたら良いのかを検討してみたいと思います。(佐々木)


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認知行動療法を試してみて1」  平成18年11月20 第142号に掲載

会員の能條さんから原稿をいただきましたので、2回に分けて掲載致します。

 9月の実践カウンセリング講座をきっかけに、認知行動療法を自分で試すようになりました。認知行動療法では、私達はみなこころのフィルターを通してものごとを見ていると考えます。いろいろな体験を自分なりの受け止め方でとらえ、それが気分に影響を与えるというのです。周囲の世界をどのように認め、知るのかというのが認知ということでしょうか。

 私も体験した事ですが、今の日本社会で多いのがうつという気分です。認知行動療法ではこのうつの気分になってしまう状態というのを、否定的な認知をしていると見なします。大野裕さんは否定的な認知として3つの特徴を上げています。
1)自分に対して悲観的
2)周囲に対して悲観的
3)将来に対して悲観的
ある出来事をきっかけに気分が落ち込むというのは誰でも経験がある事でしょう。しかしそういう状態が長期間、しかも激しく続くというのは、とてもつらいものです。この3つの否定的な認知というのは、気分が落ち込んでいる時に経験するものです。
 
 私の場合はある出来事をきっかけに、とにかく腹が立つ事があり、そのために心がかき乱される。そして気分が落ち込んでしまうという事が起こります。認知行動療法では、そうした強い感情が起きた時の、頭の中に浮かんだ考えやイメージに注目するのです。これを自動思考と名づけるのですが、これがたいへんやっかいな存在なのです。プラスに受け取るぶんにはさほど障害はないのでしょうが、先ほど書いた否定的な思考をしてしまうくせがついてしまうと何でも悪く考えてしまう。マイナスに考えた事はまた別のマイナス体験などを思い出させて、非常に苦しい精神状況になることがあります。

 最近も、娘が飼っている動物小屋の(りす、小鳥他)そうじを私が手伝っているうちに、とても不機嫌になってしまい、「いいかげんに自分でやれ。」と怒鳴ってしまいました。激しい感情が表れた時に頭の中で考えていること(自動思考)を早速書き出してみました。
1)午前中にやりたかった事ができないじゃないか。
2)自分でそうじをやると言っていた娘なのに、なぜやらない。妻はちっとも手伝わないじゃないか。
3)家庭の仕事はいつも自分に回ってくる。
5)日曜日ぐらい自分だけの時間にさせてくれ。
ざっとこんな思考が起こっているのです。それが不機嫌を作り出していることがわかりました。(能條 南生)


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「認知行動療法を試してみて2」  平成18年12月10 第143号に掲載

会員の能條さんから原稿をいただきましたので、後半を掲載致します。

 次にやるのはその自動思考に対してどのように考えたら、合理的で適応的な思考ができるかを再度考えなおしてみるのです。すると1)そうじは短時間でできるのだし、午前中できない事は午後に回すか、何も今日やる必要もない。2)手伝おうかと言ったのは自分なのだし、動物小屋のそうじは娘との貴重な交流の場にもなっている。妻もえさの用意をしたりして出来る事は手助けしてくれている。それに娘が欲しいといった動物を買い与えたのは自分だし、娘ばかり責めるわけにはいかない。3)自分には几帳面な所があるから、どうしてもやらないと気が済まなくなり一人で仕事をかかえ、忙しくしてしまう面がある。そうじなど、気になった所は、ソフトに妻や母そして子供に伝える必要がある。4)家族で過ごす時間で楽しい思いをしている事も多い。自分ひとりの時間も1階の空き部屋に行くなどして工夫すれば、ある程度は作り出せるはずだ。 このように思考を修正してみることが出来ます。結局激しい感情になる時というのはかなり極端な思考をしているのです。

 認知療法では特徴的な認知のゆがみという項目を設けていますが、その中に・白黒思考→あいまいな状態に耐えられず、ものごとをすべて白か黒かという極端な考え方でわりきろうとする思考。
・極端な一般化→小数の事実を取り上げ、すべてのことが同様の結果になるだろうと結論づけてしまう思考。
というのがあります。1)から4)まですべてこの代表的な認知のゆがみに該当します。とにかく極端なマイナスの自動思考が起こっている時はおかしな認知をしていると気付くだけでも気持ちはずいぶん変ってきます。実際自動思考を書き出してみて、いかにマイナスのゆがんだ認知をしていたかという事に気がつきました。そしてこのように思考を修正する事で気分が変るのです。少なくとも自分だけが被害者だという気分からは、抜け出す事が出来ました。

 私は激しい感情が起こった時、それを落ち着かせるのにずいぶんと長い間苦労してきましたが、この認知行動療法に出会ってからというもの、「あっと、またゆがんだ認知をしているぞ。」と立ち止まれるようになりました。むしろ、激しい感情の背景にはどんな自動思考が隠されているのだ、と今はそれを解明する楽しみさえ感じている所です。 

 認知行動療法は外国語を習うようなものだという紹介がありましたが、そのとおりです。正しい認知が出来るように、やはり練習を積む必要があるのです。マイナスに周囲を受け取る思考の癖を修正して、建設的で創造的な思考が出来るような認知を学ぶ。これは何もカウンセリングの技法として学ぶだけでなく、仕事や家庭生活という日常で起きる様々な問題解決にも役立つ技法だと思います。

参考文献
「こころが晴れるノート」大野 裕著 創元社
「実践から学ぶやさしい臨床心理学」原 千恵子・奥村水沙子著 学苑社
(能條 南生)
 


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「いじめについて考える1」   平成18年12月22 第144号に掲載

 いじめによる自殺が社会問題になっています。いじめが原因で不登校になることもあり、どこに原因があるのか、どうしたらいじめをなくすことができるのか盛んに論議されていますが、決定打はなかなか見つからないようです。いじめの実態については、文部科学省から報告されていますし、様々な機関で調査がおこなわれています。サイコロネットでも独自のアンケート調査をおこなっており、沢山のご意見もいただいています。今回は、学校におけるこのいじめの問題について考えてみたいと思います。

 調査によれば、ほとんどの人が「いじめられた」あるいは「いじめた」経験を持ち、いじめにまったく関わらなかったと答えた人は10〜20%程度です。いじめの内容としては、「嫌なあだ名をつけて呼ぶ、からかう、脅迫、ゆすり」など、ことばによるもの、「身体への暴力、所有物を壊す・隠す、いたずら書き、無視する(シカト、はぶく)」など行為によるものに大きく分けられ、それぞれ積極的か消極的か、直接的か間接的かの関わりのレベルにより様々です。

 いじめというのは、いじめっ子といじめられっ子との二者の関係だけでなく、周囲の人の態度も考えなければなりません。いじめを知ったときに、どのような態度をとるか四つの立場が考えられます。
1)自ら先に立っていじめるわけではないが、被害者を押さえつけるなどして、 いじめっ子を「補佐」し、一緒になっていじめる。
2)いじめられている状況を見て笑ったり、はやし立てたりして、「野次馬」と して振舞う。
3)自分がいじめに巻き込まれたくないので、「第三者」として振る舞い、何も せず気付かない振りをする。
4)いじめをやめるよういじめっ子に言ったり、先生を呼びに行ったりしていじ めに立ち向かい、被害者を慰め、支える。

 1)、2)は、いじめをする側だということはわかると思いますが、3)もいじめられる側からすれば、いじめっ子の仲間だと見られてしまうことに注意しなければなりません。ひき逃げを目撃したのに、被害者を助けずに知らん顔をして立ち去ってしまうことは許されることではありません。これと同じことです。ただ、第三者として振る舞う人は、「いじめは大したことではない」という思いがあるからそのように振る舞えるのですが、確かにごく些細なことまで口出しするのもどうかと思いますし、先生に告げ口したということでよけいにいじめがひどくなるということもあって、どの程度で助けたらいいのかという問題もはらんでいます。
(佐々木)


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「新年に当たって」    平成18年1月7日 第145号に掲載

 平成13年に発足したサイコロネットは今年で7年目を迎えます。カウンセリング学習会を初めとするセミナーも途切れることなく続けられるようになりました。会員は130名ほどになり、会報であるサイコロネットメールマガジンも2,000部を大きく越える発行部数になりました。毎年、着実に事業も拡大し、昨年はメールカウンセラー養成講座をスタートし、まもなくメールカウンセラーも誕生する見込みです。これもひとえにみなさまのお陰だと感謝しております。まことにありがとうございます。

 さて、今年はこのメールカウンセリングのシステムを整備し、もっと沢山の方々の相談にあずかりたいと思います。無料相談は現在毎月10〜20件いただいておりますが、担当メールカウンセラーを増やし、回答時間ももっと速やかにできるように努めたいと思います。また、無料相談システムとともに継続してカウンセリングをおこなう有料のシステムももっと沢山の方々にご利用いただけるように整えたいと思います。

 個人的には、現在滞っているメールマガジン、「メールカウンセリング講座」と「心のエネルギー論」をきちんと発行し、出版化することを目標にしています。あまり体系化することばかり考えて前進できなくなってしまっていましたが、思いついたことを随筆的にどんどん書いていこうと考えています。どちらも約2,000人の読者がいますので、ご期待に応えなければと思っています。

 毎年新年に当たって抱負を述べていますが、目標に向かって少しずつ着実に進んでいるのは感じます。しかしながら、ある時期には大きく飛躍することも必要だと思います。どうやら今年がその年になりそうです。ぜひ、そうなるように頑張りたいと思います。(佐々木)



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「いじめについて考える2」    平成18年1月23日 第146号に掲載

 文科省はいじめの「定義」として、(1)自分より弱い者に対して一方的に、(2)身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、(3)相手が深刻な苦痛を感じている、ということを示しています。しかしながら、この定義は本当に妥当なものなのでしょうか?「(1)自分より弱い者に対して一方的に」ということならば、強いものに対して陰でいくら嫌がらせをしてもいじめでないということになります。そして、少しでも反発すれば、それは一方的ではないとみなされかねません。
「(2)身体的・心理的な攻撃を継続的に加え」ということに対しては、「攻撃」でなければいじめではないし、1回や数回ではいじめではないということが言えます。「(3)相手が深刻な苦痛を感じている」ということであれば、深刻でない限りいじめになりませんし、深刻な苦痛を感じていても本人がそれを隠している限り、それはいじめとはみなされないことになります。

 では、なぜこのように漏れが生じてしまうのでしょうか。それはいじめの定義が文科省の立場からのものであり、いじめを受けている者の立場からのものではないからです。いじめを定義するのならば、少なくともいじめをされる側、いじめをする側という関わっている者の立場も考えなければならないのではないでしょうか。

 まず、いじめを受けている者の立場ですが、これは本人がいじめと感じているかどうかだけが問題になります。一方的であろうがなかろうが、攻撃の意図があろうがなかろうが、継続的であろうがなかろうが、他人が深刻な苦痛と認めようが認めまいが、本人がいじめと思うならいじめなのです。本人が非常に辛く感じていても、第三者の定義によりいじめと認められていない場合も往々にしてあるのです。しかしながら、公平に見ていじめでない、普通の関わりまでいじめと感じてしまう人もおり、そのことは考慮に入れておかなければならないでしょう。

 次に、いじめをする側の立場ですが、これも本人がいじめと認識しているかし
ていないかということになります。しかし、これも第三者的な立場とずれが生じ
ます。最初に例を挙げたように、本人がいじめを認識していても文科省の定義に
よるいじめにならないこともあります。また、ADHD、アスペルガー、自閉な
どの軽度発達障害があれば、本人は自覚していなくても、相手や第三者からは明
らかないじめに見えることがあります。

 第三者的な立場は、価値観の違いにより様々な立場が考えられます。文科省の立場、学校の立場、保護者の立場、法律的な立場など、立場が違えば定義も違って当然です。しかしながら、そのために混乱が生じます。ときに、いじめはいじめる側が絶対に悪いとか、いじめられる側にも問題があるなどという意見が出されることがありますが、これはいじめをどうとらえるかという第三者的な価値観の違いでしょう。(佐々木)



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「いじめについて考える3」    平成18年2月6日 第147号に掲載

 立場の違いによりいじめが様々に定義されるのはとても不便です。いじめられている者のことを考えるときはいじめられる者の立場を考慮した定義を使い、いじめをしている者を扱うときにはいじめをしている者を考慮した定義を使うということが良いのかもしれませんが、現実的ではありませんし、だからといって文科省の定義を鵜呑みにすれば、例外がたくさん出てきてしまいます。様々な立場を越えて統一できるような定義の仕方はないものでしょうか。

 ここで心のエネルギーの面からいじめを考えてみたいと思います。心のエネルギーについては、心意雑感のバックナンバー「心のエネルギー論1〜9(第75号〜第83号に掲載)」あるいはメールマガジン「心のエネルギー論」のバックナンバーをご参照下さい。

 まず、いじめの目的は何でしょうか? それは、相手から一方的にエネルギーを奪うことです。人間の関わりを心のエネルギーの観点から分けると、相互にエネルギーが上がる関係=友人関係、相互にエネルギーが僅かに下がる関係=初対面の関係、相互にエネルギーを下げ合う関係=ケンカなどとなりますが、その一つとして、一方だけエネルギーが下がる関係が考えられます。それがいじめとい
うことになります。もう一方は、エネルギーが僅かに下がる場合もありますし、逆にエネルギーが上がる場合がありますが、このアンバランスというのが特徴です。逆に、一方だけエネルギーが上がってアンバランスになる関係もあります。褒める、あるいは勇気づけなどをする場合です。

 心のエネルギーは常に上下しており、一時的にはアンバランスになる関係も頻繁に起こります。問題なのは、エネルギーが減り、その状態が固定化されてしまうことです。つまり、エネルギーレベルが下がってしまうことが問題なのです。従って「一方だけエネルギーレベルが大きく下がってアンバランスになる関係」というのが「いじめ」の定義になります。

 相手がエネルギーレベルを下げようとする意図があるかないか、言葉を使うのか暴力を使うのか、一回で終わるのか継続するのかなどはまったく関係ありません。ただこの定義ですと、周囲が何もしていないのに勝手にいじめられたと思い込んで傷ついてしまう人も含まれてしまいます。従来の考え方では、このような人は本人の責任でありいじめとは関係ないということになります。それは、いじめという行為は悪いものであり、いじめはやめさせなければならないという発想があったからではないでしょうか。しかしながら、いじめ云々という前に、エネルギーレベルが下がってしまった人を何とか助けなければならないという発想が必要ではないでしょうか。(佐々木)



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「いじめについて考える4」   平成18年2月21日 第148号に掲載

 因果関係を明らかにすることは科学的な態度です。しかしながら、人間関係まで物と物との間に成り立っている因果関係で説明しようとすることは誤りです。人間は物ではないのですから、物と同じような因果律に縛られてはいないのです。

 少年が自殺すると、いじめはなかったか、誰がいじめたのかと犯人探しが始まります。いじめという原因があって、自殺という結果が表れたということにならないと納得できないのです。いじめが激しくて犯罪と言えるほどであると、話しは簡単です。「いじめが原因で自殺した」ということで一件落着し、いじめをした犯人は少年院送りとなり、いじめを容認したとされる校長や教師は処分を受け、自殺した少年の家族は、自分の子どもが悪くなかったということで納得します。いじめが犯罪と言えるほど激しくなくても同じです。いじめに関わった者がやはり何らかの処罰を受け、黙って見ていた者も責められることがありますが、基本的には同じことです。

 しかし、このように考えている限りいじめによる自殺はなくならないでしょうし、いじめそのものもなくならないでしょう。そればかりかより人間関係が希薄になり、陰湿ないじめがはびこることになるでしょう。なぜなら、いじめをなくすためにいじめに関わった者を責めることに重きを置いているからです。これでは、責められないために他の人と関わらないことが一番いい方法であると考え、いじめに関係ありそうなことはすべて表面化しないように抑圧し、隠そうとする方向に圧力をかけているようなものです。

 いじめに限らず、さまざまな人間関係のトラブルも同じ考えでやってきたからこそ、現在のように人間関係が希薄な社会になってしまったのではないでしょうか。これは社会によるマイナス思考です。個人がマイナス思考をすると不幸な方向に向かって行きますが、社会がマイナス思考をしてもやはり社会全体が不幸な方向に向かっていきます。もちろん意識して不幸な方向に向かうことをしているのではなく、表面上は幸福を願っていても、結果的に不幸になってしまうということです。

 過去の原因に目を奪われる、不幸な状態を何とか改善しようとする、社会を不幸にしようとする者に不幸を与えて抑えようとする、すべてが後ろ向きです。心のエネルギーで考えると、僅かにいじめを受けた少年の家族の心のエネルギーレベルが多少アップする程度で、いじめをした人、学校の関係者、周囲の生徒たちのほとんどの人が心のエネルギーレベルが下がっています。「いじめをしないように子供たちに言い聞かせる」という対策を筆頭に、マイナスの範疇でもがいているのですから当然の結果なのです。(佐々木)
 


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「いじめについて考える5」   平成18年3月8日 第149号に掲載

 いじめそのものが昔に比べて多くなったかどうかは定かではありませんが、子どもの自殺、子どものいじめによる自殺が昔より増えていることはデータから明らかです。また不登校、いじめによる不登校が増えていることも明らかです。昔に比べていじめによる自殺やいじめによる不登校が増えているとすれば、そこには当然、昔に比べて変化したことがあるはずです。一体何が変化したのでしょうか?

 ADHD、アスペルガーなどの軽度発達障害の概念は最近できたものですが、そのような子供たちは、すぐに切れて暴力を振るってしまいいじめの側になりやすい場合もありますし、他人とコミュニケーションがとれずにいじめの対象になりやすい場合もあります。ただ、軽度発達障害でいじめのすべてを説明することはできません。いじめの要素の一部として考えるとして、そのこととは別に、社会問題となるようないじめが増えているのですから、それは何らかの変化が生み出したものと考えざるを得ません。要因はいくつか考えられますが、私は教育の変化が一番大きい影響を与えているのではないかと考えています。

 そもそも、子供たちに他人を尊重する態度が身についていれば、いじめなどするはずがありません。そして自分を尊重する態度が身についていれば、自殺などするはずがありません。現在の学校教育では、これら自他の尊重あるいはコミュニケーションについての教育が十分ではないために、社会問題になるようないじめが起こっているのではないでしょうか。では、昔の教育は自他の尊重ということができていたのでしょうか?

 残念ながら、できていたとは言えませんが、他人の尊重ということについては、親や教師など目上の者の尊重、権威の尊重ということが厳しく躾けられて他人を尊重することの代わりをしていました。また、個人の尊重ということはまったくおろそかにされてきましたが、目上の者の尊重、権威の尊重ということが守られると、個人は自分が尊重しなくても、目下の者から尊重されますし、目上の者や権威も尊重される見返りとして、逆にある程度尊重してくれるということでバランスが取れていたと考えられます。知らない人に対しては、自分より目上の立場にいる可能性があるので、一応丁重に関わるということもあったと思います。逆に言えば、自分も知らない人からは丁重に扱われる、尊重されるという経験をしていたのではないでしょうか。

 ただ、学校教育がそれを受け持っていたということではなく、学校教育を含めた社会全体の教育システムがうまく機能していたということではないでしょうか。子供たちは、親や教師、近所の大人たち、年上の子ども、自分より強い子どもに畏敬の念を抱き、ある程度の暴力は当然のことと考えていました。社会全体がそうなっていたのです。そしてその秩序を乱すような行き過ぎたいじめは、権威者や強いものが歯止めをかけていたのではないでしょうか。ガキ大将自らが行き過ぎたいじめに対して秩序を乱すこととして、立ち向かっていたのではないでしょうか。(佐々木)
 


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「いじめについて考える6」   平成18年3月8日 第150号に掲載

 戦後、民主主義、個人主義が導入され、今までの社会体制がすっかり失われてしまいました。もちろん、それによって悪い面がなくなったということができますが、同時に良い面も失われてしまったのです。親や教師など目上の者の尊重、権威の尊重ということが、平等ということに取って代わられました。そこまでは良かったのですが、平等ということは自分も尊重されるけれど相手も同様に尊重されるという肝心なことが理解できなかったようです。親や教師など目上の者、権威に対して、自分より早く生まれたから、自分より強いから、自分より立場が上だから尊重するということの代わりに、人間として自分が尊重されるのと同じく、親や教師、目上の者、目下の者も同様に尊重しなければならないのです。だからこそ平等なのです。

 しかしながら、親や教師、目上の者、目下の者などあらゆる人に対して、自分が認めなければ尊重しなくても良いという誤解が社会全体に蔓延しており、そのことこそが、このいじめ問題の根本原因だと私は考えています。本来、自分を尊重せず、権威を尊重するという価値観から、自分を尊重し、他人も尊重するという価値観へパラダイムシフトが起こればよかったのですが、まだまだ民主主義、個人主義については、発展途上のようです。それは自ら必要に迫られて手に入れたものではなく、外部から押しつけられたことにその原因があったようです。

 ただ、私たちはすでに民主主義、個人主義、自由主義を標榜し、社会全体がそれに向かって動いているのです。昔の教育方法が良かったと嘆くよりも、その生き方の中で新しい教育方法を考えなければなりません。子供たちは、親や教師や周囲の大人たちを見て、誤った民主主義、個人主義を学んだに過ぎないのです。その結果、いじめも多くなったということなのです。子供たちのいじめをなくすためには、まず私たち大人が他人を尊重するということがどういうことなのかを子供たちに見せなければなりません。また、子どもの自殺をなくすためには、まず私たち大人が自分を尊重するということはどういうことなのかを見せなければなりません。

 幸いなことに、自分を尊重し他人も尊重するということは、カウンセリングの基本的な考え方ですし、アサーション・トレーニングとして教えることもできます。コミュニケーションとしてのカウンセリングを広く普及させていきたいという所以です。そして、カウンセリングを学ぶものは、その技法を学ぶだけではなく、自分自身の生き方、考え方、他人とのコミュニケーションということについて深く考えなければならないものだと思います。(佐々木)



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