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サイコロネットメールマガジンに掲載された、心に関する雑感です。
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No131〜No140
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| 「体罰と教育3」 平成18年6月6日 第131号に掲載
罰を与えて教育しようとするのは、心理学でいうオペラント条件付けの原理に基づいており、行動療法の技法の一つとして存在します。オペラント条件付けというのは、いわゆるアメとムチで行動が変わっていくということで、前者の代表が褒めて育てるという教育法であり、後者の代表が体罰ということになります。この他にも行動を矯正する方法はたくさんありますが、それぞれ一長一短があります。体罰という方法は、欠点が多く、褒めて育てる教育法にとって変わられつつありますが、褒める教育ではどうにもならなかったのに、体罰によって良い方向に変えることができたというケースがあるために、注目されてしまうのでしょう。
体罰の欠点は、戸塚ヨットスクールやアイメンタルスクールのように、行き過ぎがあれば死亡事故を起こしかねないということが最も大きいでしょう。もともと体罰というのは、肉体的・精神的に苦痛を与え、その苦痛から逃れるために行動を変えざるをえないようにし向けるということで、脅迫とまったく同じ構造をしているのですから、人権侵害に直結しています。ですから、教育として許される範囲内かどうかが問題になり、その限界を超せば、即犯罪です。昔は学校で当然のようにおこなわれていた体罰も、現在は、学校でおこなえば大変なことになってしまいます。唯一、教育権を持つ親が教育を目的として、一定限度内でおこなう場合にのみ許されるのではないでしょうか。もちろん、国家権力が犯罪者の矯正のためにおこなうものや本人の自由意志でそのような教育を受ける場合は別です。
では、法律的なことはさておき、体罰をおこなうとどのような影響があるのでしょうか。勉強があまりできない子に、テストの成績が悪かったら体罰を与えて、成績をよくしようとすることを考えてみましょう。体罰というのは、殴ったり、運動場を走らせたり、食事を与えなかったりという肉体的に苦痛を与えることを指しますが、怒鳴りつけたり、侮辱したり、やりたいことをさせなかったりという精神的な苦痛を与える罰も同じことです。
さて、「子供はテストの成績が悪かったとき、体罰を受け、とても辛い思いをします。次は辛い思いをしたくないので、頑張ってテストの成績を良くしようと思い、モチベーションが上がります。」というのが、体罰を与える側の考えです。しかしながら、そのようにうまくことが進むケースは希です。
体罰を与えると、辛い思いをする、というのは確実です。そして、辛い思いをしたくない、体罰から逃れたいと思うのも確かでしょう。しかし、ここから先が違います。体罰を与えて辛い思いをさせると、心のエネルギーが奪われてしまうということを考えなければいけません。心のエネルギーが減ってしまうと、頑張って勉強しようというエネルギー自体が少なくなってしまうのです。ここが褒めて成績を上げようとするのとの大きな違いです。
もともと勉強ができない子供は、頑張って勉強時間を増やしても成績が上がるかどうかは微妙です。なぜ勉強ができないのか、さまざまな理由があるはずですが、その理由を考えずに頑張らせようとしても効果が上がるかどうかは定かではありません。勉強の絶対時間が足りないのか、集中力に欠けるのか、その科目が嫌いなのか、あるいはLD(学習障害)ということさえあり得るのです。体罰によって、机の前に座っている時間を長くすることはできても、それによって、テストの結果がよくなるかは別問題です。(佐々木)
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「体罰と教育4」 平成18年6月20 第132号に掲載
勉強ができない子供に体罰を与えて勉強させようとするのは、ある意味無謀なことです。体罰を与えられた子供は、その辛さから逃れるために行動しますが、成績を上げて体罰から逃れようとする子供たちはほんの僅かです。勉強すること自体が元々楽しくなく、辛いから勉強しないのです。体罰の方がもっと辛いとしても、勉強する辛さが差し引かれたモチベーションしか残りません。だから普通は、勉強して体罰を逃れようとするよりも、もっと楽にできる方向へと流れていきます。言い訳をして逃れようとするのを手始めに、勉強している振りだけをしたり、暴力で反撃したり、不登校になったり、家出したり、あるいは心身症を起こして拒絶反応を示したりします。
どのような行動をとるのかは、子供の特質によりますし、子供と体罰を与える側との関係にもよります。しかし、どのような反応をするにしても、体罰を納得できなかった子供たちには恨みの感情が残ってしまいます。体罰を与える者は勉強に対してだけでなく、様々なことで体罰を与えるでしょうから、このような恨みの感情はどんどん積もり積もっていき、子供たちと体罰を与える側との関係はますます悪くなっていきます。そして、恨みの感情と体罰の経験は後々悪影響を与えます。
恨みの感情が限界を超せば、暴力を持って反撃するでしょうし、そうでなくても暴力で言うとおりにさせてもいいのだということを学んだ子供たちは、弱いものに対して当然のごとく暴力を振るうようになります。いじめや少年犯罪へとエスカレートしていくのは目に見えています。元々自己表現が上手ではなく、他人に対して暴力を振るいやすい子供たちがいますが、まさに火に油を注ぐような結果になります。
他人に暴力を振るえない子供たちもいます。その子供たちは、自分が他人から暴力を振るわれるような価値の低い人間なのだと思い込むようになります。やれと言われてもできない自分を嫌い、他人の目ばかり気にする、自分を愛せない自己評価の低い大人になっていきます。
もちろん、体罰によって勉強するようになる子供たちもいるでしょう。体罰も一種の関わりですから、無視されるよりはいいはずです。褒められることがなく、無視され続けてきた子供たちにとっては、体罰でも受け容れることでしょう。また、嫌々でも従っているうちに、それに慣れて勉強ができるようになることもあるでしょう。大人になってから、あのとき体罰を受けたのが結果的に良かったと思っている人たちもいることでしょう。
しかし、そのような子供たちは本当に体罰でなければ勉強するようにならないのでしょうか。私はそうは思いません。そのような子供たちも含め、大多数の子供たちは、勇気づけと勉強を楽しくする工夫により、今よりもずっと勉強ができるようになると考えています。体罰でなければ勉強できるようにならない子供たちもいると思いますが、ごく一部に限られます。もし、体罰を教育に取り入れるのであれば、その子供たちを見極めなければなりませんし、同時に勇気づけを十分おこなって、心のエネルギーを減らさない配慮もしなければなりません。もちろん体罰を与える回数も含め、与え方は慎重におこなわなければなりません。体罰は使い方が非常に難しいと思います。(佐々木)
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「体罰と教育5」 平成18年7月6日 第133号に掲載
前回、子供に体罰を与えて勉強させようとするとどうなるのかを書きましたが、その最悪のケースを証明するような事件がまた起きてしまいました。6月20日、奈良県田原本町の医師宅の火災で母子3人が死亡し、長男が放火と殺人の疑いで逮捕されたという事件です。長男は調べに対して、「幼稚園のときから父親の監視下で長時間勉強させられ、つらかった。みんなと同じように遊びたかった。父の暴力が許せなかった。」と取り調べに対して供述しています。
小さい頃から将来を期待され、一生懸命勉強させられた結果がこれなのです。体罰を与えられた子供は、その辛さから逃れるために行動すると述べましたが、まさに彼は自宅に放火することで父親からの体罰を逃れたのです。監視をして長時間勉強させれば、一生懸命勉強して期待通りになると考えることは、彼に対しては幻想だったのです。
では、彼に勉強を強制しなければよかったのでしょうか。父親は息子に期待をかけるべきではなかったのでしょうか。このような少年犯罪が起きるたびに動機が詮索され、行き過ぎた体罰とか、勉強の強制、あるいは愛情不足が原因だなどと結論づけられますが、本当のところはどうなのでしょうか。
もちろん、体罰が行き過ぎなければこのようなことは起こらなかったでしょうし、勉強を強制しなければ、本当の愛情を注いでいればこのようなことは起こらなかったでしょう。これらの事柄は確かに要素であることは間違いないのですが、事柄そのものを良いとか悪いとか決めつけてしまうと本質を見失ってしまいます。愛情は必要ですが、それも度が過ぎれば暴力と同じことになってしまいます。すべての要素について許容範囲があり、限度があるのです。要素によっては許容範囲が極端に狭いものがあり、すぐに行き過ぎてしまうものがあるのです。そのような要素が、たとえば体罰が、最初から不要だというふうに短絡的にみなされてしまうことがあるのです。
このような事柄から一旦視線を外して、心のエネルギーという観点から見直すと、本質が見えてきます。彼は家族との関わりの中で心のエネルギーをどんどんすり減らされ、限界を越える恐怖に負けて、その関係を壊し、それ以上のエネルギーの低下を防いだだけなのです。実際の肉体的な暴力だけでなく、監視下で長時間勉強させられるだけでも、体罰と同じように心のエネルギーが失われてしまうのです。自分自身の心の中で、エネルギーの減少をくい止め、流れを正常にする方法を知っていればこのようなことにはならないのですが、このような家族との関係の中では、それを身につけることができなかったということなのです。唯一心のエネルギーを回復できたのが、学校だったのです。(佐々木)
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「体罰と教育6」 平成18年3月6日 第134号に掲載
心のエネルギーの観点から勉強をさせようとすることを考えてみましょう。勉強する、学ぶということは、新しい知識や考え方を取り入れて自分を変えていくことです。基本的には、人間は成長しようという欲求がありますので、この欲求を発露させれば、それほど苦労しなくても学ぶことができます。生まれたての子供はすべてが学ぶことですから、自然に任せておけば一人でどんどん学んでいきます。勉強させようなどということは必要ありません。好きなこと、自ら学びたいと思うことは、いくら大きくなっても、大人になっても同じです。この場合の学ぶことは楽しいことですから、心のエネルギーが増えていきます。エネルギーの消費は肉体の疲労に伴うものです。
ところが、人間には個性がありますから、成長するに連れて、それ以上学ぶことが楽しくないということもでてきます。本来であれば楽しいことも、余計な干渉によって嫌いになってしまうこともあります。先生を嫌いだとその先生から教わる課目も嫌いになってしまうことがあります。このような好きでないことを学ぼうとしたときに、抵抗のためにエネルギーをたくさん使ってしまいます。そのままではどんどんエネルギーが減って、学ぶことができなくなってしまいます。
しばらく休んでエネルギーが回復するのを待つか、エネルギーを減らさないように適当なところで手を抜くかということになりますが、外部からエネルギーを与えることや他で費やしていたエネルギーを集中させることでも学ぶことを続けさせることができます。それが、褒めたり勇気づけをしてエネルギーを与えること、叱ったり罰を与えることにより勉強を強制することに相当します。
褒めたり勇気づけをしてエネルギーを与えることは、どんなときにも有効ですが、叱ったり罰を与えることは心のエネルギーを奪う行為ですから、十分エネルギーがない状態でやればとても苦痛に感じます。無理にやれば叱ったり罰を与えられる状態から逃れるような行動を取らざるをえなくなります。
ただ、褒めたり勇気づけをしてエネルギーを与えることがどんなに有効であっても、学ぶことがとても嫌でエネルギーをどんどん消耗するとすれば、与えるエネルギーと消耗するエネルギーのどちらが大きいかということになってしまいます。まず勉強を嫌いにさせないということが重要です。最近は、楽しく勉強できるような工夫がたくさんなされていて、これはとても結構なことだと思います。
本来、本当に勉強したくて勉強するのであれば何も問題はありません。問題になるのは、親や学校が勉強させたいのに本人が勉強したくないと思っていることの中にあります。あるいは、本人が勉強しなければならないと思っているのに、一方で勉強したくないという気持ちがあり葛藤を起こしていることにあります。勉強したくなければ全然勉強しなくていいのかというと、そういうものではないと思いますが、基本的には、本当に必要なもの以外は強制する必要はまったくないのではないでしょうか。勉強したくないのに高校や大学に行って一体何が身に付くというのでしょうか。これは自分自身の体験からも身に染みて感じていることです。
(佐々木)
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心意雑感「体罰と教育7」 平成18年8月7日 第135号に掲載
東大和市の特別養護老人ホームで男性職員が女性入所者に性的な暴言を吐いていたことが7日のマスコミで報じられています。このような福祉関連施設でも頻繁に虐待行為や体罰が起きています。このケースはもちろん、職員のケアということに対する意識の低さが問題なのですが、その根底には手の掛かる利用者に対して体罰によって都合のいいように操作しようとする考え方があります。その延長線上に、このような言葉の暴力によって自分の思いを満たそうとする行為が生まれてしまいます。福祉・介護の現場では暴力、体罰は決して使わないという基本をぜひ尊重してもらいたいものです。
しかしながら体罰については、体罰ならではの効果があるという側面もあります。では、体罰はどのように使えばいいのでしょうか。今まで述べてきたように、体罰はすぐに行き過ぎてしまい、問題を起こしがちです。体罰を使うにはよほど条件を見極めて、歯止めがかかるようにしておかなければ危険です。
体罰は権力者の都合のいい行動習慣に変えようとする洗脳に頻繁に使われます。私たちは子供たちを洗脳するわけではありませんが、行動を矯正しようとする目的に利用することができます。しかしそれは洗脳とまったく同じ構造をしているのですから、本当に子供たちのためになる行動矯正でなければなりません。親が子供に対してやらせたいからという理由だけで、体罰を使うとすれば大変危険です。まず、親自身は基本的には体罰と言う方法を使わず、どうしても他に行動を矯正する方法がないときに限って、初めてその使用を考えるべきでしょう。
心のエネルギーを与えるのが目的のカウンセリングの分野でも体罰は不要です。カウンセリングでは矯正しようとする意図がないうえに、体罰は大きく心のエネルギーを奪ってしまうからです。しかしながら、心理療法においては、行動傾向を変容させようとする意図がありますので、体罰が対象になってきます。行動傾向を変容させようとする意図のある心理療法もその形態からカウンセリングと呼ばれることがありますが、心のエネルギーを与える傾聴主体のカウンセリングと心理療法ははっきりと区別されるべきと考えます。ただし、実際には両者が融合して行われますので、実質上の区分けはできないことが多いということも付け加えておきます。
(佐々木)
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「体罰と教育8」 平成18年8月22日 第136号に掲載
さて、体罰を教育に用いようとするときには、どのような歯止めをかけておかなければならないのでしょうか。どのような条件のもとでなら、体罰を教育に使ってよいと言えるのでしょうか。
本人が自ら望んでそのような教育を受けたいと思っているのであれば、あまり問題はないでしょう。本人のモチベーションが非常に高い場合は、体罰も効果的に働きますし、本人も納得しており、クレームをつけることもないのですから。これはスポーツの分野や進学塾などがあてはまります。他人との競争に勝とうとするならば、他人がやっている方法は当然として、さらに他人がやらない方法も取り入れるという意味があります。この場合には、体罰が社会的に許される範囲内かどうかが基準となります。
本人が嫌がっている場合は、体罰は問題です。体罰によって心のエネルギーが大きく失われ、恨みを抱いてしまう可能性があるからです。体罰以外に矯正の方法がない場合に、本人の我慢の限界を超えない程度におこなわれるべきでしょう。犯罪者の更正教育、ある種の発達障害や心の病気などが該当します。脳の機能的な問題によって不適応行動を起こしているのに、褒めることや勇気づけの教育あるいは対話重視にこだわるのは無意味なことがあります。体罰や褒美による条件づけは、人間の根元的な本能に働きかけますので、他の人間的な教育方法が受け容れられない場合には、むしろ積極的に取り入れることが必要かもしれません。しかし、本当に体罰しか教育方法がないかどうか見極めることが非常に大切になります。
ほとんどの教育においては、体罰は必要ないと思います。しばしば体罰がもてはやされる不登校や家庭内暴力の矯正に対しても同じです。不登校や家庭内暴力を起こしている子供たちだけにその原因を求め、体罰という教育方法に頼るのは筋違いです。もし、家庭や親にもその責任があるのであれば、まずその改善が必要ではないでしょうか。その上で、その子供の特質に合わせたサイコセラピーをおこなうことです。ただ、この場合でもその子供の特質を見極め、最適なセラピーを選ぶということはとても重要なことです。
カウンセリングを受けたがまったく効果がなかったということをよく耳にしますが、カウンセリングであれば何でもいいということではありませんし、カウンセラーであれば誰でもよいというものでもないのです。不登校や家庭内暴力に対するプログラムはまだできていないので、今のところカウンセラー個人の能力に負うところが大きいのが残念です。(佐々木)
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「最近の事件に思う」 平成18年9月6日 第137号に掲載
このところ、自分の子どもを虐待したり、子どもが親を殺したりと痛ましい事件が続いていますが、9月1日、「被告の暴言苦? 母が自殺」という見出しで新聞に報道された事件がありました。この事件はコミュニケーションの象徴的な問題が含まれており、最も極端な例としてわかりやすいので、考えてみたいと思います。
この事件は、自分の娘が殺害された事件の裁判の席上、被告から暴言を浴びせられたことを苦に、母親が自殺したというものです。もともとの事件は、自分の娘が帰宅途中に同級生だった被告に車ではねられた上、首を包丁で刺されて殺害されたというものです。この裁判の法廷で、殺人罪に問われた被告は「お前ら(家族)が駅に迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ」と被害者の家族に暴言を浴びせており、父親は、被告は娘と妻の2人を殺したと憤っているということです。本当に暴言を苦にして母親が自殺したのかどうかは証明することはできませんが、十分あり得ることです。
言葉によって相手を傷つけることができますし、極端な場合、この事件のように相手を死に追いやってしまうこともあります。逆に、言葉によって相手を勇気づけ、生きる力を与えることもできます。この事件は、相手の言葉によって自殺してしまったということですが、この事件をどのように考えたらよいのでしょうか。暴言を吐く方が悪い、自殺するほど心が弱いのがいけない、という見方もありますが、これは一方的であり、やはりコミュニケーションという関係性から考えることが必要ではないでしょうか。
暴言を吐くということは、暴力と同じであり絶対にしてはならないと言うことはできますが、侮辱罪になったとしても、殺人罪になることはありません。世の中にはこのような暴言は満ちあふれており、これはこれで何とかしなければならないと思います。最近では、セクハラ・パワハラに対する認識が深まって、少しずつ言葉の暴力に対する認識も高くなってきているとは思います。
だからといって、相手から暴言を吐かれてしまったときにわき起こってくる感情、そしてその感情によって引き起こされる行為を相手のせいにすることはできません。怒りのあまり暴力を振るって相手を傷つけたり、落胆のあまり自分を傷つけてしまったら、それは自分で責任をとらなければなりません。不合理なようですが、それが現実です。感情そのものをコントロールできるのは自分自身しかいないのですから。
コミュニケーションというのは、相手を理解し、より良い関係を作るためのものですが、相手に悪意があり、攻撃を仕掛けて関わりを持ってきたときには、その関わりを受け取らないということも必要です。今回の場合、相手の暴言を無視できれば問題は起こらなかったと思うのですが、暴言を受け容れ自分自身を責めてしまったために、悲劇が起こってしまったのでしょう。(佐々木)
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「最近の事件に思う2」 平成18年9月22日 第138号に掲載
他人の言動によって怒りや落ち込みなどの嫌な感情を引き起こしてしまうことはよくあります。よくあるというより、他人の言動が怒りや落ち込みなどの原因だとさえ一般的には思われているのではないでしょうか。侮辱されて腹を立てる、怒られて落ち込む、虐められて怯えるなど、みな同じパターンです。大きなところでは、首相が靖国神社を参拝したから腹を立てる、というのも同じです。侮辱されたり、怒られたり、虐められたりしたのだから嫌な感情が起きて当然と思いがちですが、でも、本当にそうなのでしょうか。
今回の事件では、「お前ら(家族)が駅に迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ」と被害者の家族が加害者に暴言を浴びせられた結果、母親が自殺したということですが、母親は「自分が迎えに行きさえすれば、娘は死なずにすんだ。自分が迎えに行かなかったから娘は殺されてしまったのだ。自分が娘を殺したも同然だ。」と自分を責めて、苦しんでいたのではないでしょうか。あるいは、自分を責めることによって心のエネルギーを消耗し、うつ状態になっていたかもしれません。そこに追い打ちをかけられるように暴言を吐かれて、ますますその思いが強くなり、「娘を殺した私は死んで償わなければならない」などという思いが生まれて自殺に至ったということではないでしょうか。
確かに加害者の暴言は許されることではありませんが、暴言を受けた人が皆自殺してしまうわけではありません。もし母親が自分を責めることさえしなければ、自殺という最悪の結果はまぬがれたでしょう。逆に、自分を責めずに加害者に対して腹を立てたならば、加害者に殴りかかっていたかもしれません。どちらもあり得ることです。どちらになるのか、あるいは暴言を浴びても冷静でいられるのかは人によりますが、それは、暴言に対する受け取り方、考え方の違いによるものです。
「お前らが駅に迎えに行かなかったから娘は死んだんだよ」ということばの内容には誤りがあります。「娘が死んだのは親が迎えに行かなかったからだ」というのは責任転嫁も甚だしく、「娘が殺されたときに迎えにいかなかった」という事実はあるにせよ、「加害者が殺したから死んだ」という大きな事実を隠すことはできません。このような誤りを信じてしまうから、誤った結果が生まれてしまったのです。
母親が「自分が迎えに行きさえすれば、娘は死なずにすんだ。自分が迎えに行かなかったから娘は殺されてしまったのだ。自分が娘を殺したも同然だ。」と思ったとすれば、実はそれが誤りなのです。たとえ迎えに行ったとしても、殺される場合はありますし、一緒に殺されてしまったかもしれません。そのような因果関係を言うならば、「娘さんが別な会社に入社していれば」、「娘さんが会社を休んでいれば」、「別な場所に住んでいれば」、「加害者と同級生でなければ」、「加害者が娘さんを好きにならなければ」...被害に遭うことはなかったでしょう。それはすべて「縁」というものです。(佐々木)
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「最近の事件に思う3」 平成18年10月6日 第139号に掲載
できごとは無限の「縁」の上に存在しています。だからその「縁」の一つひとつを採り上げてできごとの原因に帰することはできません。世の中には、この「縁」だけで成り立つできごとも存在します。人と人との出会いがそうです。「袖振りあうも他生(多生)の縁」ということばがありますが、見知らぬ人と袖が触れ合う程度の小さなできごとも前世からの因縁、深い宿縁によるのだという意味です。被害者と加害者が出会ってしまったのは、縁だったのでしょう。
この「縁」の上でおこなった行為は、二度と同じ過ちを繰り返さないということを考えたとき、行為をおこなった本人が行為を回避することができますし、本人が責任をとらなければなりません。つまり、その原因はおこなった本人に存在するとみなければなりません。同様に、この「縁」の上で考えたことも、生まれた感情も、考えたり感じた本人が責任を取らなければなりませんし、感情やそれによって生まれる行為を回避できるのは本人しかいないのです。行為の責任は行為をおこなった人が、感情の責任は感情を持った人が責任をとるしかないのです。
責任と言うと、何か重いものを感じてしまうかもしれませんが、他の人では代わりができないという意味であり、責任を持つ人は、どのような結果になるのかの命運を握っています。加害者は暴言を吐いたという行為の責任を取らなければなりませんが、母親は「自分が娘を殺したも同然だ」という考え、自責の念という感情の結果生まれる行為の責任を取らなければならないのです。厳しいようですが、自殺という行為は、誤った考え方に導かれる責任をとった結果とみなければならないのです。
「自分が迎えに行きさえすれば、娘は死なずにすんだ。自分が娘を殺したも同然だ。」という誤った考え方をする代わりに「自分が迎えに行かなかったという因縁はあったが、殺したのは加害者だ」という正しい考え方を母親がすれば、自分を責める気持ちは生まれなかったのです。このように、何を思うか、何を考えるかということで、その後の結果が変わってしまうのです。これは、日頃の自分自身の考え方、ものの受け取り方に関わってきますが、それは性格、信念、価値観などというその人の根本的な心の働きに支えられています。
何かできごとがあったときに、そのできごとをどのように考えたかという経験で、信念や価値観が形作られていきますが、逆に、どのように考えるかは信念や価値観に大きく影響を受けます。考え方にも習慣があり、この習慣によって私たちは自動的に考えることが多く、ますますその考えを強化しているということなのです。一旦誤った考えを持ってしまうと、なかなかその考えをやめることができません。どんなに不合理な考えであっても、その誤りに気づけず、誤った結果を甘んじて受けなければならなくなってしまうのです。
この程度が軽く、社会生活に支障がない範囲内であれば、単なるこだわりとして済ませられますが、程度が重くなれば、社会生活にも支障が出て、悩みの原因となりますし、もっと極端になれば、今回の事件のように自殺にまでつながってしまうのです。(佐々木)
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「最近の事件に思う4」 平成18年10月23日 第140号に掲載
このところ、小中学生のいじめによる自殺が相次いでいます。中には教師がいじめをおこなっていたケースもあって、やりきれなさを感じます。相変わらず、校長や教育委員会のいじめはなかったという隠蔽体質、自己保身の態度にも怒りを感じますし、いじめる方が100%悪いのだという家族や報道の姿勢にも疑問を感じます。当初は大人のいじめによる自殺を採り上げたのですが、子どもの場合も考えなければならないようです。子どもの場合には、パターンは同じなのですが、大人とはちょっと違う問題が含まれています。
大人は社会的責任を取らなければなりませんから、いじめが法律を犯していれば当然その責任を取らなければなりません。法律を犯していないまでも社会的な制裁を受けることがあるかもしれません。しかし、自殺させたという行為自体の責任があるわけではありません。自殺という行為の責任はあくまでも本人にあります。自殺するかしないかの選択は本人にあったからです。では、このことが子どもに対してもそのまま適用できるかというと、そうではありません。
いじめをした子どもは、まだ法律的な責任を取ることができません。それは法律の仕組みを知らないということもあるでしょうし、法律上の善悪の区別がつかないということもあるでしょう。いじめる側は、いじめを重大な問題と意識していなかったのかもしれません。同様にいじめられる側に対しても、自殺したという行為の責任があると突き放してしまうことができません。法律的な責任と同じように心の責任をとる体制が子どもはまだできあがっていないのです。
なぜなら、生まれたばかりの赤ちゃんは自他の区別もついておらず、善悪という概念もないからです。小中学生ではまだ、いじめをする方が悪いのだ、暴言は相手のものなのだという思いが持てず、さもいじめられる自分が悪いと思い込み、誰にも相談できずに自分だけを責めてしまうということも起こりやすいのです。正しくいじめという状況を受け止められないのです。
本当に小中学生のいじめによる自殺をなくそうと思うのならば、いじめる側といじめられる側の双方に対策が必要になります。と言うより、他人をいじめないための教育、いじめられた場合に正しく対処できるための教育がすべての子どもたちに必要なのです。もちろん、現在はどちらの教育もおこなわれているとは言い難いのです。この教育のためには、いじめとは何かという定義やいじめがあったかなかったかという議論の前に、人との関わりの中では、私たちは常に他人を傷つける可能性があり、常に傷ついている人がいるということを認識しなければなりません。
傷をつけたかつけなかったかなどというと大げさになってしまいますが、心のエネルギーで考えるとはっきりします。私たちは人と関わるだけで、それぞれが心のエネルギーを消耗しています。いじめられて初めて心のエネルギーを消耗するわけではないのです。いじめなどの関わりではエネルギーを大きく消耗するというだけなのです。つまり、いじめられた場合に正しく対処できることというのは、他人との関わりで自分自身の心のエネルギーを無駄に消耗しないことであり、いじめないことというのは、他人との関わりで、相手に無駄なエネルギーを消耗させないことだと言い換えることができます。ここで自分を尊重することと、相手を尊重することというコミュニケーションの基本と結びつきます。その教育が必要だと言っているのです(佐々木)
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