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サイコロネットメールマガジンに掲載された、心に関する雑感です。
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No121〜No130
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| 「新年にあたって」 平成18年1月6日 第121号に掲載
毎年、新年の抱負を述べてきましたが、できたこともできなかったこともありました。ただ、完全にはできないながらも抱負を述べることが目標になり、その方向には少しずつ進んできているという確かな手応えを感じています。今年は、フリースクールの開設を目前に控えており、これが大きな目標となっています。
フリースクールといっても、最終的には不登校児だけを対象にしたものではなく、本来の教育のあり方を実践する壮大な計画を抱いています。さまざまな制約からまず不登校児を対象に始めますが、子供だけでなく親も巻き込んでいこうと考えています。それは、子供と親の関係によって不登校になる場合もありますし、子供が不登校になったために親子の関係が崩れるということが一つにあるからです。また、子供に関われる人たちみんなが協力して、教育に携わることが必要だという考えもあるからです。
カウンセリングというのは、目の前にいる相手を尊重し理解しようとする人間関係のことですが、悩みを解決する技術などという応用的なことではなく、ここまで基本に立ち返れば、不登校児やその親との関わり方にもまた、カウンセリングのマインドが必要になることがわかります。逆に、もし目の前の相手を尊重し理解しようとする気持があれば、相手は不登校児であれ、その親であれ、あるいは発達障害児であれ、まったく関係ありません。
しかし、目の前の相手を尊重し理解しようとする気持を持っていても、どんな相手に対しても常に尊重できるというわけではありません。そこに、関わる側の限界があり、その限界を押し広げていくことがカウンセリングの勉強ということになります。これは私自身の目標でもあります。さて、カウンセリングということばは使いませんが、まず不登校児の親に対して、自分の子供を尊重し理解できるようになってもらいたいと思っています。これは非常に難しいことですが、とても大切なことだと思います。親が味方についてくれれば、子供によい影響を与える機会を増やすことができるからです。
これを実現するために、面接のカウンセリングやセミナーを利用します。また、親が他の子供たちの面倒をみるという体験も役に立ちます。このためには、私一人の力では不足ですから、たくさんのカウンセリングマインドを身につけたボランティアの協力が必要になります。ここに臨床経験の場を作るというサイコロネットの目的の一つがあったわけで、それが今、実現しようとしています。ぜひたくさんの方のご協力・ご参加をお願いしたいと思います。(佐々木)
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「カウンセリングの料金」 平成18年1月21日 第122号に掲載
保険が適用にならないカウンセリング(あるいはサイコセラピー)の料金は、1回1時間で10,000円前後が普通です。この金額については、自分自身でも簡単に払える金額ではありませんし、一般的にも高い金額なのだろうと思います。そして、サイコロネットの調査でもそれが裏付けられました。昨年おこなったアンケートで75%もの人が、この金額は「高い」と回答したのです。他の選択肢は「妥当」15%、「仕方がない」8%、「安い」2%という結果でした。カウンセリング料金がなぜこのような金額になるのか、それが知りたいというコメントもありましたので、ご説明したいと思います。
1時間10,000円という料金は、カウンセリングルームを経営する上で割り出された料金設定です。同じく保険が適用されない整体とかマッサージが安くて普通5,000円ぐらいですから、カウンセリングの場合にはこの倍の価格設定ということになります。しかし、家賃や諸経費を差し引いて世間並みの収入を得ようとするならクライエントからこの位いただかなければ成り立たないのです。整体やマッサージあるいは病院のようにお客様が次から次へと来て、予約で一杯ということは普通あり得ませんし、実際に続けて何人もの人をカウンセリングするというのは、カウンセラーにとって、とても大変なことなのです。1日に多くて数人しかこなせないため、この料金になるということなのです。
ただ、価格設定が高いのでますます利用しにくくなるという悪循環に陥っているということはありますので、もう少し安い価格設定にして利用しやすくするということを考えるのは必要だと思います。では、単純に安くすればいいかというと、カウンセリングの場合には、もともとクライエントが少ないという宿命があり、料金を安くしてもパイが増えるわけではないので、痛し痒しです。
また、カウンセリングの技術力と料金とは必ずしも一致していません。カウンセラーは人気商売的な要素があり、知名度が上がれば高くてもクライエントが集まりますから、技術力がなくても必然的に料金は高くなります。逆に1回5,000円程度の安い料金を掲げているカウンセラーにも優秀な人はいくらでもいます。技術力があってもなかなか評価されにくいのもこの世界の特徴です。逆に、自信がないために高く設定できないということもあって、カウンセラーを選ぶ目は重要です。
ちなみにサイコロネットでは1回5,000円に設定していますが、これはクライエントの利用のしやすさを考えているのはもちろんですが、カウンセリングルームに家賃が不要なこと、広告に費用をかけていないことなど、緒経費が少ないためできるのです。料金の安いところを選ぶ場合には、なぜ安くできるのか、なぜ安く設定しているのかもしっかりと調べて欲しいと思います。
高くても良いカウンセラーの方が結果的には総費用が安いということもあります。料金が安いというだけではなく、ぜひカウンセラーについての良し悪しを見分ける目を養っていただきたいと思います。良いカウンセラーをたくさん利用することが、結果的にカウンセリング料金の引き下げにもつながるのだと思います。(佐々木)
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「物資とエネルギーと心のエネルギー」 平成18年2月6日 第123号に掲載
心のエネルギーについては、「心のエネルギー論」として別のメールマガジンで論じています。このところ忙しさにかまけて発行が滞っており、大変申しわけなく思っていますが、最近、エネルギーの本質は何かということを少し考えてみましたので述べたいと思います。
私たちが普通にエネルギーと言った場合には、物理学で扱われる「物質とエネルギー」のエネルギーを想像します。では、このエネルギーとは一体何でしょうか。石油や電気やガスなどがすぐに思い浮かぶかもしれませんが、物理学では、熱エネルギ、運動エネルギー、位置エネルギー、化学エネルギー、原子核エネルギーなどという区分けになります。これらのエネルギーが相互に形態を変え、その総和は一定であるという法則があることも、ご存知のことと思います。
これらのエネルギーの名称は、性質に基づいて区分けをしただけで、エネルギーの本質をついたものではありません。では、これらに共通するものは何でしょうか。それは、物質の状態変化に伴って出入りする「何ものか」ということになります。ストーブで部屋を暖めるという場合には、エネルギーレベルの高い熱源(物質)が冷えることにより、エネルギーを失ってエネルギーレベルが下がり、部屋(に存在する様々な物質)はエネルギーをもらい、エネルギーレベルが上がるということです。つまり、温度の変化です。この場合のエネルギーレベルとは、内在しているエネルギーのことで、外部からエネルギーをもらえばさらに上がり、エネルギーを外部から奪われれば下がるという性質があります。
高いところにある物体は位置エネルギーを内在しています。これが下に落ちると、位置エネルギーは運動エネルギーに変わり、床なり地面なりにぶつかって止まったところで、運動エネルギーは熱エネルギーに変わったり、ぶつかった相手に伝えられたりして、0になります。位置エネルギーはレベルが下がっただけで、0になったわけではありませんが、逆に外部からエネルギーを与えれば、位置エネルギーを元のレベルに戻すことができます。ここでは、高さの変化、落下速度の変化、温度の変化などが観測されます。
このように、エネルギーは物質が内在している物理的な能力が変化するときに必要になる概念です。究極的には、物資はエネルギーのかたまりと言えますが、この地球上では、物資は安定しているものが多く、利用できるエネルギーは非常に限られています。
さて、心についてもまったく同様に考えることができないでしょうか。「状態を変化させるときに必要になる何ものか」という定義であれば、心に当てはめることもできそうです。心は大きく、思考、感情、行動傾向に分けられますから、思考を変えるとき、感情を変えるとき、行動傾向を変えるときには、必要になるものだと言えますが、これは経験とも一致しています。思考、感情、行動傾向にエネルギーレベルを考えることもできます。プラス思考―マイナス思考、幸福―不幸、できること―できないこと、というのが内在しているエネルギーの大きさに対応していると思うのですが、いかがでしょうか。(佐々木)
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「思うことと感じること1」 平成18年3月6日 第125号に掲載
私たちは誰かが怒っているのを見たとき、「怒っていると思う」という言い方をしますし、「怒っているように感じる」という言い方をすることもあります。「思う」ということばと「感じる」という言葉をはっきりと使い分ける場合もありますし、かなりごちゃ混ぜに曖昧にして使っている場合もあります。では、「思う」と「感じる」はどのように使い分けるのが正しいのでしょうか。よく考えてみると、意味の違いだけでなく、そこにはもっと深い重要な違いがあるのが見えてきます。
「いろいろな努力を重ねてこられたのだろうなぁと感じながら、私の胸もジーンと熱くなりました。」これはメールカウンセラー養成講座の受講生の回答練習の一節です。通常の会話では普通の言葉ですが、私は次の文章との違いを指摘しました。「いろいろな努力を重ねてこられたのだろうなぁと思いながら、私の胸もジーンと熱くなるのを感じました。」これはことばを大切にしようと思う気持ちとともに、相談者の気持ちを「感じて」欲しいという気持ちもあったからです。
簡単に言えば、「思う」というのは「考える」ということですし、「感じる」というのは感覚器官を通して情報を得るということです。「いろいろな努力を重ねてこられたのだろうなぁ」は考えたことであり、感覚器官から得られた情報ではありませんから、「思う」という方がしっくりきます。「ジーンと熱くなった」はこのままでもいいのですが、感覚器官で感じられることですから、「感じる」でおかしくありません。私はこのように指摘したわけです。
ところが、「思う」は「考える」とまったくイコールということではありません。「考える」ことは意識があって初めてできることですが、「思う」のは意識の世界でのできごとだけでなく、無意識のレベルまで含まれます。心の底で考えて意識できないことも「思う」ことに含まれるのです。心の奥底ではイメージの世界、信念の世界までつながっています。「私はこの世で愛が一番大切だと思う」というように、信念を言葉にすれば、「思う」になります。
一方「感じる」は、五感を通してわかるわけですから、その人の感度によって感じられたり感じられなかったりします。その限界値付近では、何となく感じられるということになります。感じているのに意識には上らないということも起こります。これはやはりイメージの世界です。「オーラを感じる、言葉では表現できない圧力を感じる」などと表現されます。
イメージというのは、言語も映像も感覚も何でもありますので、イメージの世界では、「思う」ことも「感じる」こともあり得ることになります。ちなみに直感でわかるというのは、「思う」、「感じる」にかかわらず、意識の世界ではなく、無意識の世界でイメージによってわかるということですので、思考イメージも感覚イメージも両方とも含まれるように思えます。(佐々木)
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「思うことと感じること2」 平成18年3月21日 第126号に掲載
「怒りを感じる」というのは、怒って、その結果身体に起こった変化、筋肉の緊張、呼吸数の増大、心拍数の増加などの変化を感じ取っているわけです。思考が停止してしまう、同じことばかり考えてしまうという脳機能の変化を感じ取る、つまり「思う」ことの変化を「感じる」こともあるわけです。
逆に、「今、私は確かに怒りを感じているぞ」と「感じている」ことを「思う(考える)」こともできます。つまり、心の奥底では思うことを感じたり、感じることを思ったりすることがあるのですから、「思う」、「感じる」どちらも使われることがあり得るということなのでしょう。しかしながら、「感じている」ことを「思う」のと、「思う」ことを「感じる」のでは意味が全然違ってきます。この意味の違いを認識していないと、正しく自己表現していないことになってしまいます。
誰かが怒鳴っているとき、その人が怒っているのかどうか、私たちは二つの方法で判断することができます。一つは、「あのような怒鳴り方をしているのだから怒っているに違いない」と「考えて」わかる場合と、自分自身の身体がビクッとして、怒っているのが「感じられて」わかる場合です。では、自分が誰かからひどいことをされて我慢しているとき、怒っているのか怒っていないのか、どうしたらわかるでしょうか。やはり、このようなひどいことをされたのだから怒っているはずだ、あるいはこんなことでは怒るはずがないと思考によって判断するということが一つ考えられます。そして、もう一つ自分の身体の反応を感じて怒っているかいないかを判断するということが考えられます。
ここまで考えると、「思考によってわかる」ことと「感じてわかる」ことというのは、こうありたいという概念によって作られた自己と体験によって作られた自己に対応しているように思えます。概念というのは思考の積み重ねによって作られるわけですし、体験というのは痛みや悲しみ、喜びなどの感覚・感情を伴ったできごとの記憶の積み重ねです。この二つが一致して同時に起こるとき、これを自己一致していると言うのは、言い過ぎでしょうか。
さて、メールカウンセリングの回答練習に出てきた「いろいろな努力を重ねてこられたのだろうなぁと思いながら、私の胸もジーンと熱くなるのを感じました。」ということばは、思考が先に表現されていますが、感覚も表現されています。では、「胸がジーンと熱くなるのを感じて、きっといろいろな努力を重ねてこられたのだろうなぁと思いを巡らせました。」ということばはどうでしょうか。
面接のカウンセリングの場合には、考えてわかろうとするとクライエントについていけません。感じてわかっていかなければ、話しを聴くことができないのです。話しを聴いていて、胸がジーンと熱くなるのを感じたとき、「いろいろな努力を重ねてこられたのですね」と言う言葉が自然に出てきたとすると、この言葉こそ相手の心に響く一言になっているのではないでしょうか。メールの場合であっても、このようなカウンセリング・マインドで対応することが相手の心に響くことにはならないでしょうか。(佐々木)
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「体罰と教育」 平成18年5月6日 第129号に掲載
厳しい体罰によって訓練生2人が死亡、2人が行方不明となり傷害致死罪などに問われ、実刑判決を受けた元校長の戸塚宏氏が刑期を終え、先日出所しました。会見で、体罰を否定した検察庁やマスコミを厳しく批判したり、インタビューで死亡した訓練生の家族の感情について話しが及ぶと急に怒りだしたりして、主張していることに対して疑問を感じました。
戸塚ヨットスクールは、スパルタ式の指導を行い、不登校や家庭内暴力の少年達を「矯正」させ話題となったのですが、1983年にいわゆる戸塚ヨットスクール事件を起こしました。13歳の少年をヨット上で角材などで殴り死亡させたのです。この死亡事件の前にも、訓練生2名が死亡、合宿の帰りにフェリーから海に飛び込んだ訓練生2名が行方不明になっていました。この事件で、戸塚校長とコーチは逮捕され、4名が実刑判決を受けました。
戸塚校長らが逮捕されても、戸塚ヨットスクールは存続し、現在は10〜20名規模の訓練生を受け容れています。正規合宿の入校金は315万円、その他に月々の月謝11万円という高額であるにもかかわらず、家庭内暴力を起こす子供や引き込もりの子供を持つ親が、警察や教育機関、病院や心理療法ではどうにもならなかった結果、頼ってくるようです。戸塚ヨットスクールについては、活動を肯定する石原慎太郎氏が代表となって「戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織して支援しています。
さて、この事件はどう考えたら良いのでしょうか。体罰は教育か否かという問題が根底にありますが、私は必ずしも体罰が教育ではないとは考えていません。教育の一つの方法であるのは間違いないのですが、誰にでも通用する教育方法ではないことは断言します。特に戸塚氏には体罰という教育法をおこなう資格がないと考えています。
体罰を受けた者は相当な心のエネルギーを奪い取られてしまいます。その体罰に耐え、体罰を与える側の意図を受け容れ、自分が変わった者だけが、教育という効果を得られます。それゆえスポーツに体罰が付き物なのです。勝ちたい、強くなりたいという強い意志を持つものは、体罰に耐え、その目的に向かって大きな成果を上げる場合があります。
しかしながら、良くなりたいという強いモチベーションを持たない心のエネルギーレベルの低い人は、体罰によって心のエネルギーレベルがさらに低くなり、逃げ出したくなってしまうでしょう。戸塚ヨットスクールで退療者が多いのも、行方不明になった2名の訓練生が海に飛び込んだのもこのためでしょう。また、教育的な意図を受け容れず、体罰が嫌なために受け容れた振りをしている子供たちもいるでしょう。この子供たちには、意図した教育とは別な方向に追いやられてしまうという結果が待っています。つまり、体罰という方法を使うとしても、一人ひとりの子供たちの耐えられる限界値が大きく違い、何を受け容れるかという意志も違うのですから、これを把握せずに体罰を与えるのは誤りなのです。
戸塚氏自身が刑務所について「刑務所は教育機関だが何もやってない」と批判しましたが、刑罰としての懲役が戸塚氏には自分の考えを変える教育にならなかったと言っているということです。刑務所に入ってもまた罪を犯す人は多いのですが、心を入れ替える人もいます。つまり、刑罰はもともと人によって教育効果が違うし、大きな教育効果を持たない場合もあるのです。体罰もまったく同じことです。
インタビューで急に怒りだすという戸塚氏は、他人の気持ちを理解しようという姿勢が欠けていることもさることながら、自分の感情に責任を持てていません。もちろん怒るにはそれなりの理由がありますが、自分の気に入らないことに対して侮辱を感じたり、怒りの気持を引き起こすのでは、正しい体罰などできるはずがありません。相手に対する尊厳の気持がないために、このような態度が生まれるからです。死亡に至るまで体罰を与えてしまったのも、教育に名を借りた自分自身の怒りの発散だったかもしれません。
体罰を与える場合には、相手を尊重するという気持が不可欠です。でももし、相手を尊重する気持があるならば、必ずしも体罰によらなくても教育効果をあげることができます。体罰が是か否かという教育論争には、この相手を尊重するという前提が欠けているために、歯車が噛み合わないような気がしてなりません。
(佐々木)
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心意雑感「体罰と教育2」
戸塚ヨットスクールで終わりにしようと思っていたら、今度は、引きこもりか
らの立ち直りを支援する名古屋市のNPO法人「アイメンタルスクール」で入寮
中の男性が死亡し、杉浦昌子同法人代表理事らが逮捕監禁致死容疑で逮捕される
という事件が起きてしまいました。杉浦容疑者らは26歳の男性を東京都世田谷区
の自宅から施設に連れて行く際、車中で手錠などを使って男性の手足を拘束。入
所後も、男性を施設内の柱に鎖で体を縛るなどして拘束し、手足にすり傷や皮下
出血を負わせ、外傷性ショック死させた疑いです。本人の同意なく強制的に施設
へ連れていったり、手錠を使って拘束したり、大部屋に多人数を押し込め、部屋
に鍵をかけて監禁したりという人権侵害が日常的におこなわれていたようです。
杉浦容疑者は、引き込もりや不登校などの問題を抱える人たちの間で「行動派
カウンセラー」として知られ、テレビなどにも出演していたとのことです。私は
見たことがなかったのですが、杉浦容疑者の姉もやはり同様のことをしていて、
こちらは何度もテレビで見ました。不登校、引きこもりのカウンセラーと紹介さ
れていた彼女が、本人を怒鳴りつけ、親の責任を追及して罵倒するというやり方
で、最終的には自分の施設に入れさせるというものでした。たくさんの人を助け
たと思うのですが、彼女自身、不当な暴力的扱いとプライバシーの権利侵害で告
訴され、裁判中です。
さて、これらの事件の背景には様々な問題が含まれています。人権侵害の問題、
体罰やしごきなどの暴力的な教育方法の問題、心を扱う専門家としての問題及び
人格的問題、テレビの採り上げ方の問題、家族の引きこもりや不登校の本人に対
する関わり方の問題、引きこもりや不登校に対する社会的な位置づけに対する問
題などです。今回、入寮者が死亡したということから、実はこれらの問題が非常
に大きかったということが見えてきたわけです。
体罰やしごきなどの暴力を教育に使うということの是非を考える以前に、今回
の事件では人権侵害が甚だしいことを考えなければなりません。本人の同意を得
ずに、拉致し(職員らは、自宅から療まで連れてくることをこう呼んでいた)、
手錠や鎖で拘束し、監禁し、洗脳する、目的は違えどまるで北朝鮮と同じことを
やっているではありませんか。これらの人権侵害を侵してしまうのは、どんなに
価値観、世界観が違っていたとしてもその人を大切にしようとするヒューマニズ
ムの精神が欠如しているためです。
最初から引きこもりや不登校を悪い状態であると決めつけ、暴力をもって矯正
するという姿勢には、人間に対する尊厳が感じられません。ただ金儲けのために
引きこもりや不登校の人たちを利用しているような印象すら受けてしまいます。
そして、それを助長させているのが家族やテレビの採り上げ方の問題、ひいては
それを認める社会の問題です。力のないカウンセラーが多く、これらの人々を助
けてあげられないということも遠因だと思います。
金儲け自体は悪いことだと思いませんが、問題は人間を尊重するという姿勢の
欠如です。人間尊重の態度、人間理解ができていない者が権力ある立場に立ち、
暴力を使って金儲けができるとなれば、暴走してしまうのも当然でしょう。これ
は公的資格などという問題ではなく、人の心を扱う者が本当に身につけなければ
ならない姿勢の問題なのです。私自身が資格を問題にせず、実力主義でいこうと
するのも人間尊重の態度さえできていれば、むしろ方法などはそれほどの問題で
はないということを信じているからです。ある程度の力がつきお金が稼げるよう
になると勉強を辞めてしまう、自分自身でも心しておかなければならないことだ
と思っています。(佐々木)
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以降の雑感は下記よりご覧ください。
http://blog.mag2.com/m/log/0000074874
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