心意雑感 

サイコロネットメールマガジンに掲載された、心に関する雑感です。

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No101〜No110

「100号を振り返る」    平成17年3月5日 第101号に掲載

 サイコロネットメールマガジンが前号で100号を迎えましたが、一つの節目としてこのメールマガジンについて振り返ってみたいと思います。サイコロネットメールマガジンは、サイコロネットの会報として、現在はセミナーの情報、セミナー参加の感想文、心意雑感などの内容で月に2回配信しています。サイコロネット発足当初はメールマガジンがどのようなものかも手探り状態でしたから、将来メールマガジンを発行する経験を積むための準備のような形でスタートしました。内容も、サイコロネットを今後どのような形で進めていくか話し合った、その結果をまとめた議事録のようなもので、世話人に電子メールで配信していました。

 第一回目のカウンセリング学習会は世話人の皆さんの声かけで12名の参加者があり、何名かの方には入会をしていただきました。このときから会報として、セミナーの案内やセミナー参加の感想文を掲載するようになりました。そしてサイコロネットについて一般の方々にも広く知ってもらうために、17号からはまぐまぐなどの発行システムを利用しての配信を始め、現在に至っています。発行システムの配信当初は300部位の発行でしたが、現在は1,600部を越えています。

 心意雑感も初めは「提言」として、みなさんに問題提起をするという内容でしたが、21号からは「心意雑感」とタイトルを変え、もっと幅広く思ったことを書くという内容に改めました。何を書いていいのか手探り状態でしたから、毎回本当に書くことがあるのか心配でしたが、書けば書くほどアイデアは次から次へと湧いてくるというのが実感です。「知識には限界があるから、書くこともいずれはなくなってしまう」というマイナス思考が、「思うことは死ぬまで続くから、死ぬまで思いを書き続けることができる」というプラス思考に、自分自身が変わってきているのを感じます。 私自身がサイコロネットのセミナーで勉強させていただき、それとともに成長してきたなぁと強く感じます。

 心意雑感のテーマに詰まり、寝ながら考えついたのが「メールカウンセリング講座」であり、「心のエネルギー論」です。これらはいずれも心意雑感として何回か掲載しましたが、書き綴っていくうちに一つの理論体系となり得るのに気づき、それぞれ別のメールマガジンとして現在配信しています。他からの受け売りではなく、自分自身の体験と思考によって書いていますので、なかなか思うように筆が進みませんが、いずれ出版できればと思っています。

 本当に私自身が書きたいことを書いてきたという思いがありますが、みなさんのご意見を掲載したり、あるいはみなさん自身が書きたいことを書いていただくということもやぶさかではありません。今のところ他に書いてくれる人がいないので私が穴埋めしているというのが実状です。みなさんの原稿もぜひ掲載させていただきたいと思いますので、書いてもいいよという方はぜひご連絡ください。
(佐々木)


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「ストレスの対処法:アンケートの結果から2」平成17年3月19日 第102号に掲載

 ストレスによって低下した心のエネルギーレベルを回復するという観点から、少数意見も含め、アンケート結果全体をまとめてみますと次のようになります。


●自分自身が楽しいと思うことをする

「テニス」「ゴルフ」「サイクリング」「ダンス」「釣り」「カラオケ」「旅行」「ドライブ」「ガーデニング」「インターネット」「楽器演奏」「読書」「料理」「勉強」など、あらゆる楽しみのためにおこなっている趣味。

「美術品の鑑賞」「音楽鑑賞」「映画」「テレビ」「ビデオ」「懸賞」「ゲーム」「子供と遊ぶ」「ペットと遊ぶ」「ギャンブル」などの娯楽。

趣味、娯楽という分類は便宜上分けただけで、本人のとらえ方によって変わります。趣味、娯楽以外にも自分が好きなこと、楽しいと思うことは、すべて含まれます。楽しい感情が得られれば、心のエネルギーレベルが上がります。


●気分的な満足感・快感を得る。

「おいしいものを食べる」「酒を飲む」「タバコを吸う」「買い物をする」など、基本的な欲求を満たせば満足感が得られます。回答にはありませんでしたが、性欲を満たす「セックス」も当然考えられます。「睡眠」も基本的な欲求の一つですから、ここに分類されます。また、「何かをやりとげる」というのも達成感という満足が得られます。

「暴れる」「叫ぶ」「泣く」「笑う」「愚痴る」など、感情を発散することも気分的な満足感が得られます。

満足感が得られれば、心のエネルギーレベルが大きく上がります。食欲・嗜好欲・性欲を満たすという方法は、至福感が大きいだけに依存しやすく、新たなストレスの原因になることもありますので注意が必用です。


●身体の緊張を癒す。精神的にリラックスする。

「リフレクソロジー」「整体」「マッサージ」「ヨガ」「ストレッチ」「入浴」「温泉」「腹式呼吸」「瞑想」「アロマテラピー」など、身体を癒したり、あるいはリラックスすることによって、心のエネルギーのレベル低下を防ぎ、エネルギーを回復させます。

「通院」「精神安定剤を飲む」「サプリメントを飲む」などということも、肉体的、精神的な機能回復をはかり、心のエネルギーの回復につながります。


●ストレスをより強める思考を停止させる。

「忘れる」「深く考えない」「意味のないことをする」など、嫌なできごとを考えないことで、心のエネルギーレベルがそれ以上下がらないようにストップをかけます。

「シャーペンで自分を傷つける」というのは、痛みを感じることによって、思考が停止します。回答にはありませんが、エスカレートすると「リストカット」「自殺」ということにつながります。自分を傷つけることで満足感を得ようとしているのですが、実際には満足感が得られるのは一瞬で、自己嫌悪に陥ってさらにストレスが進んでしまいます。


 以上はアンケートの回答をもとに分類したもので、起こってしまったストレス
反応を軽減するというレベルのストレス対処法です。皆さんもストレスを感じた
ときには、ぜひ参考にしてください。(佐々木)


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「メラビアンの法則」    平成17年4月4日 第103号に掲載

 皆さんはメラビアンの法則というのをご存知でしょうか? アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが1971年に提唱した、コミュニケーションにおいて、話し手から聞き手に、どのような要素がどのぐらいの割合で影響を与えるかを示したものです。その法則の内容は次のようになっています。
●Verbal (言語情報:言葉そのものの意味)      7%
●Vocal  (聴覚情報:声の質・大きさ・速さ・口調) 38%
●Visual (視覚情報:見た目・表情・しぐさ・視線)  55%

 この法則は、3Vの法則あるいは 7-38-55ルールとも言われ、ビジネスの世界で半ば常識として、「コミュニケーションは三つのVにより構成される」、「言葉で何かを語るよりも、いかに聞かせ、いかに見せるかということが重要である」という解釈がなされています。そして、カウンセリングのセミナーでもそれが逆輸入され、コミュニケーションの基本として教えられるようになってきました。実は私も、とあるセミナーでこの法則を教わったのですが...

 そのときはそんなものかなあと思っていましたが、どうしても言語情報が7%ということが気になり、よくよく調べてみると、この法則は誤解と引用の繰り返しにより生まれた、とんでもないガセネタ、偽情報だということがわかりました。その後、自分なりにコミュニケーションについて考えてみましたが、やはり、この法則は誤りであることを確信するに至りました。

 そもそも、メラビアン博士がこの法則を導き出すためにおこなったという実験は、言葉の内容と表情もしくは声質が矛盾している場合、聞き手は言葉と表情あるいは声質のどれに重きを置くだろうか、ということを調べるためのものでしかなかったのです。実験方法は、被験者にある写真を見せながら、テープレコーダに録音したある声質の、ある言葉を聞かせ、話し手の感情をどう判断したかを調べるというものでした。ある写真、ある声質、ある言葉の「ある」というのは、「好意」「嫌悪」「中立」のニュアンスを表すもので、各1枚ずつ3枚の顔写真、各1つずつ3つの声質、各3つずつ9つの単語について調べただけです。さらに、被験者同士が実際に顔を合わせておらず、コミュニケーションと呼べるものではないのです。

 この実験から得られる結果は、「言語情報、聴覚情報、視覚情報がそれぞれ矛盾していた場合、言語情報が優先されるわけではない。同様に、聴覚情報、視覚情報が優先されるわけではない。」ということです。ですから、「言葉だけでコミュニケーションをとろうとすると失敗することがある」、とか「カウンセリングにおいては、バーバルコミュニケーションだけでなく、ノンバーバルなコミュニケーションも重要だ」ということは言えるでしょう。これをコミュニケーションについて一般化するためには、様々な言語情報、様々な聴覚情報、様々な視覚情報の組み合わせについて、多くの人を対象にたくさんの実験を重ねなければなりませんが、これは現実的に不可能です。

 メラビアン博士は、感情を表す要素として、たまたま実験しやすい単語と声と表情を選んだだけで、コミュニケーションの要素は、言語情報、聴覚情報、視覚情報の三つだなどとは言っていませんし、ましてや、ボディーランゲージの影響力は全コミュニケーションの55%を占めるなどという言い方をすれば、これはまったく根拠のない大嘘ということになります。メラビアン博士本人もあるインタビューにおいて、「この実験結果を日常のコミュニケーションに適用することはできない」と述べているそうです。

 実験結果の発表の仕方にも問題があったのでしょうけれど、テレビという視覚文化の流れと相まって、都合の良い解釈と引用がなされてきたというのが真相のようです。最近では、企業におけるプレゼンテーションや営業活動における視覚情報の重要性を説くのにこのメラビアンの法則が頻繁に引用され、知識の受け売りによって誤りに気づかないまま蔓延してしまったというのが実状です。

 では、コミュニケーションの要素にはどんなものがあり、本当はどのくらいの重要度を占めているのでしょうか? これを説明できなければ、メラビアンの法則を確信を持って否定することはできません。これについては、次号で述べたいと思います。(佐々木)


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「メラビアンの法則2」     平成17年4月19日 第104号に掲載

 そもそもコミュニケーションとは何でしょうか。辞書によれば、コミュニケーションとは、意志や感情を相手に伝えることとなっています。何らかの思いを相手に伝え、同じ思いを相手にも想起してもらえれば、コミュニケーションはうまくいったということになります。そして、その際の伝達手段としてバーバル(言語情報)とノンバーバル(言語以外の情報)があるわけです。では、言語以外の情報には聴覚情報(vocal)と視覚情報(visual)しかないのでしょうか? 残念ながら、これは違います。私たちが外部から情報を得るのは、視覚・聴覚以外にも、嗅覚・触覚・味覚といういわゆる五感が使われるのです。視覚情報と聴覚情報を使うことが多いとしても、コミュニケーションに嗅覚・触覚・味覚が全然使われないと言えるのでしょうか?

 悪臭を身体から発散させながら、きちんとしたコミュニケーションをとることができるでしょうか? 知らない相手にベタベタと触りながらコミュニケーションをとることができるでしょうか? きっと、不快感を相手に与え、コミュニケーションどころではないでしょう。逆に、ほのかな香水の香りや、握手など軽い皮膚の接触は、コミュニケーションを深めるのに役立つことが知られています。確かに、嗅覚・触覚・味覚などによって、意志や感情をこと細かに伝えるのは難しいでしょうけれど、ごく大ざっぱな好意を伝えることはできますし、上記の例からもわかるように、嫌悪感については、容易に、そして強烈に相手に抱かせてしまうことが可能なのです。

 「好きです。愛しています。こんな気持になったのは初めてです。あなたのことで頭の中が一杯です。...」と延々と言葉で好きだという思いを伝えたとします。愛を受けいれたくないとしても、「この人は私のことが好きなんだ」という思いは生まれるはずです。では、最後に「みんな嘘だよ〜ん。」と一言付け加えたらどうなるでしょうか。この一言で、「好きだ」という言葉はすべて否定され、「この人は私のことが好きなんだ」などという気持は消し飛んでしまうでしょう。代わりに、騙されたことに対する怒りの感情や相手に対する不信感がわき上がってくるかもしれません。

 では、同様に「好きです。愛しています。こんな気持になったのは初めてです。あなたのことで頭の中が一杯です。...」と言葉では伝えるのですが、貧乏揺すりをして、鼻くそをほじりながら伝えたらどうなるでしょうか。極端に変な抑揚をつけてしゃべったら、嫌な臭いをプンプンさせながら、相手の身体をベタベタ触りながら、だったらどうなるでしょうか。実験するまでもなく、「好意」よりも「嫌悪」を抱くはずです。なぜならば、「好意」を言葉で伝えていても、同時に「不誠実」というメッセージを伝えており、「好意」そのものが嘘で、おちょくっている、もてあそんでいるという思いを想起させるからです。

 ただ、感じ方には個人差がありますから、「好きです。愛しています。」ということばに対して、どのくらいの不誠実さを同時に伝えたら、「好意」を感じられなくなるのか、その個人差のぶれはどのくらいなのかを実験で調べてみないと正しいことは言えないでしょう。ところで、メラビアンのおこなった実験は、このような限界を調べるものではなく、非常に曖昧な「好意」、「中立」、「嫌悪」の状態について、ある特定の組み合わせで、「好意」を感じる人と「嫌悪」を感じる人との割り合いを調べただけなのですから、その結果の数字をもって、言語情報、聴覚情報、視覚情報の影響力であると決めつけるのは、まったくナンセンスなのです。

 では、言語情報とその他の媒体による情報の影響力はどう考えたらいいのでしょうか? そこには個人差とは何かということが深く関わっており、さらに深くコミュニケーションがどのようにおこなわれているかの理解が必要になります。次号でこれについて述べたいと思います。(佐々木)


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「メラビアンの法則3」      平成17年5月5日 第105号に掲載

 私たちは、ことばを使わなくても喜怒哀楽が自然に表情に表れたり、悲鳴によって身の危険を周囲の人に知らせることができます。犬や猫でも仲間同士しっかりとコミュニケーションをとっています。敵がやって来たことを仲間に知らせたり、異性を求めたりするのは種の存続を求める本能ですから、このような基本的に必要なコミュニケーションはことばによらない非言語(ノンバーバル)・コミュニケーションで伝えられるのは当然です。好きか嫌いか、つまり好意・嫌悪はことばによらなくても、表情や声質で基本的に伝えられるのです。

 ただ、どのくらい好きか、どのように好きかなどという微妙なニュアンスは、ことばによらなければ伝えるのが難しいでしょう。ことばは気持や状況をより正確に、より詳細に伝えるためにその語彙を増やし、発達してきたのではないでしょうか。だとすれば、好意・嫌悪という大まかな感情は非言語(ノンバーバル)情報が、その程度や種類などの細かい情報は言語(バーバル)情報が優先していると考えることができます。従って、言語情報と非言語情報が相反する好意と嫌悪を伝えたとき、まず非言語情報を優先することが想像できます。これはメラビアンの実験の結果と符合しているように思えます。

 だからといって、言語情報よりも非言語情報の方が情報量が多いとか、コミュニケーションにおける影響力が強いということにはなりません。あくまでも、相反する好悪が伝えられたとき、非言語情報が優先されるのではないかということです。では、これで一件落着かというと、ことはそんなに単純ではありません。

 見ず知らずの人から突然「好きです」と言われたとします。皆さんは、好意を受け容れることができるでしょうか。コンピュータであれば、「OK あなたは私のことが好きなんですね」と受け容れられるでしょうが、人間の場合は、そのようにすんなり受け容れられる人は少ないのではないでしょうか。「何で突然そんなことを言い出すのだろう。もしかすると結婚詐欺かもしれない。」、「私が魅力的だから一目惚れしたのかもしれない。でも、本当に好きになったのだろうか。」、あるいは「突然そんなこと言うなんて、何て非常識な人なんだろう。」などと思うかもしれません。言語、非言語コミュニケーションを総動員して、相手が「好きだ」という気持を伝えようとすればするほど、返ってその気持は伝わらないでしょう。

 それは、相手から「好きだ」という情報が伝えられたとき、自分にとっての善悪などを考えたり、その意味を分析したりする働きがあるからにほかなりません。その働きにより、「好きだ」という情報が、「騙そうとしている」とか「もてあそんでいる」などというまったく別の意味として受け取られてしまいます。この働きはいわゆる「認知」と言われる働きです。一般的には、「見たいように見、聞きたいように聞く」というふうに言われますが、この「認知」の働きがあればこそ、このようなことが起こるのです。

 この働きは、自分自身が相手に「思い」を伝えようとするときにも起こります。初恋のときのことを思い出してください。「好きだ」という気持をうまく相手に伝えられたでしょうか? 気持を伝えられずに片思いに終わってしまった人も多いのではないでしょうか。わざと興味がない振りをしたり、逆に相手に意地悪をしてしまったことはなかったでしょうか? それは、「私の気持ちを受け容れてくれないのではないか」、「突然告白したら変な人だと思われるに決まっている」、「自分のように何の取り柄もない人間を好きになってくれるはずがない」などというマイナス思考が足を引っ張っているのです。これも「認知」の働きです。

 つまり、コミュニケーション(思いの伝達)というのは、次のように「認知」という働きを考えずには成り立たないのです。

「送り手の思い」→「送り手の認知」→「媒体:バーバル情報・ノンバーバル情報」→「受け手の認知」→「受け手の思い」

送り手の思いが受け手の思いに到達するまでには、バーバル情報・ノンバーバル情報だけでなく、送り手の認知と受け手の認知という二つのフィルターを通っているのです。バーバル情報・ノンバーバル情報だけの問題ではないのです。メラビアンは、この二つのフィルターを考慮に入れずに、自分のおこなった実験から、バーバル情報・ノンバーバル情報の違いによる結果だと結論づけてしまったのです。ですから、この結論はまったくの誤りだと言わざるを得ないのです。(佐々木)


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「メラビアンの法則4」     平成17年5月20日 第106号に掲載

 メラビアンの実験は、「人間は甘い、塩辛い、苦いの三つの味が同時に与えられたとき、どの味を一番強く感じる性質があるのか」ということを、何人かの人を集め調査し、結論を出したのと同じようなものです。これ以外に味覚はないのか、甘さ、塩辛さ、苦さのレベルをどうするのか、個人差をどのように排除するのかということがまったく考慮されていませんので、甘さを強く感じたものが7%、塩辛さが38%、苦さが55%という結論が出たとしても、人間の味覚は苦味が最も強く、全味覚の55%を占めるなどということが言えるはずがありません。また、このように結果が大きく三つに分かれたとすれば、それは個人差によるものだということをまず考えなければならないでしょう。

 認知の働きという個人差を考慮して、メラビアンの実験をもう一度考えてみましょう。この実験で知りたいことは、言語情報と視覚情報あるいは言語情報と聴覚情報で矛盾するメッセージが伝えられたとき、どちらの情報がより強く受け取られるのか、結果的にどちらの情報を信じるのかということになります。伝えられた情報は必ず認知の働きを受けますので、実は、結果は認知次第ということになりますが、その認知というものには、人間の特性として言語情報より視覚情報の方を重く受け取る仕組みがあるのかどうかということが問題です。

 認知とは情報をどのように処理するかという心の働き、つまり脳の働きの総称です。その中にはもちろん、自分自身を守るために危険を避けるという本能が含まれ、それが最も優先されています。そして過去の様々な体験の記憶が、学習という形で危険なものと安全なものを判断したり、思考を繰り返すことによって、自分にとって良いか悪いかという価値観を形作っています。この価値観や性格、信念などが核となって、認知の働きとなります。つまり、認知とは個人差がとても大きいものなのです。さらに、体験が直接的に言語情報、視覚情報、聴覚情報にも大きく影響を与えます。

 過去に人相の悪い人に暴行を受けた経験のある人は、人相の悪い人を見ただけで嫌な感情が生まれ、ことばや話し方がどんなに良くても常にマイナスのメッセージを受け取ってしまうでしょう。過去に親からいつも怒鳴られてばかりいて恨みの感情を持っていると、そのような話し方をされただけで、嫌な感情がわき上がってきてしまうでしょう。また、音楽のセンスのある人は話し方の微妙なニュアンスを感じられ、聴覚情報に重きを置きやすいかもしれませんし、文学的センスのある人は、言語情報を重要視するかもしれません。このように過去のつらい体験、嬉しい体験と実験で与えられた情報が結びついていると、容易に感情がぶれてしまいますし、聴覚、視覚などという感覚は、訓練によって敏感になりますので、結果に影響を与えてしまうかもしれません。 

 従って、この個人差を排除しなければ、人間の共通する性質などは実験で知ることができないのです。逆に言えば、この個人差を排除するのが難しいゆえに、言語情報と視覚情報、聴覚情報などの非言語情報がコミュニケーションに果たす重要度を測定することができないのではないでしょうか。メラビアンの法則を否定するのならば、なぜ実験によってそれを証明してみせられないのか、逆にメラビアンの法則を支持するような実験が行われないのか、これはやりたくてもできないでいるというのが正解だと思います。

 しかしながら、メラビアンの法則を否定したからといって、コミュニケーションにおけるノンバーバル・コミュニケーションの重要度が低いということでは決してありません。経験からも、コミュニケーションにおける視覚情報、聴覚情報などのノンバーバル・コミュニケーションの役割はとても重要なものがあり、マイナスメッセージはすぐに、そして強力に伝わってしまうということは肝に銘じておいてよいと思います。また、カウンセリングにおいてもノンバーバル・コミュニケーションはとても重要な役割を占めており、私も、視覚・聴覚などのセンスはもっと磨かなければと思っています。(佐々木)
 


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「靖国問題とコミュニケーション」  平成17年6月06日 第107号に掲載

 小泉首相が靖国神社に参拝するということが、中国と韓国から非難され、それに対して小泉首相が頑な態度をくずさず、野党のみならず与党の一部やマスコミなどからも批判の声が出ています。政治の問題は採り上げたくないのですが、コミュニケーションということを考えるとこれほどわかりやすい例もないので、あえて採り上げることにしました。

 首相が靖国神社に参拝することの是非や、靖国神社の歴史的な意義もとりざたされていますが、この点については議論の分かれるところで、なかなか結論は出ないでしょう。しかし、どのような立場であっても、コミュニケーションを持とうとすることとは関係ありません。問題なのは、「何で傷つくのかわからない」という発言に代表されるように、日本国の首相が靖国神社に参拝することに対して危機感を抱き、心を痛めている他国民がいるという事実を無視する態度を取り続けていることです。

 もちろん、他人の行動によって本人が傷つくというのは、本人の認知の歪みによって起こっているのですから、本人が傷つきたくないと思えば、他人を操作して変えようとするよりも、自分自身の認知の歪み、つまりものの考え方を直す方が良いのです。だからと言って、他の人が相手にそれを求めるのは、相手と同様のレベルに陥ることになってしまいます。正しいコミュニケーションとは、操作的な態度からではなく、他人の認知の歪みを認めるところから始まるのです。

 ちょっと堅苦しい表現になりましたが、要は、考え方も価値観も違う他人を認めることからコミュニケーションが始まるのであり、あなたの考え方は間違っているという主張からは、喧嘩するという関係は生まれても、正しく相手を理解するというコミュニケーションが始まらないのです。考え方も価値観も違うもの同士が、違いが存在することを認め合った上で、お互いがどのように違うのかを理解する過程がコミュニケーションなのですから。

 小泉首相の態度は、一見相手を批判せず、自分の信念に忠実に従うという、筋の通った態度に見受けられますが、本当にそうでしょうか? 相手をことばで批判しなければそれでよいのでしょうか? 実は、メッセージはことば(バーバル)だけで伝わるのではありません。話し方や態度(ノンバーバル)でもしっかりと伝わるのです。無視という態度は、相手を尊重していないという立派なメッセージです。無視は陰湿なイジメに頻繁に使われているではありませんか。意識的に無視しているのか、鈍感で気づかないのかは本人でないのでわかりませんが、小泉首相が中国や韓国を尊重していないというメーッセージを出し続けていることだけは感じられます。

 ただ私は、「中国や韓国の主張を受け入れて、靖国神社に参拝すべきでない」ということを言いたいわけではありません。「中国や韓国の主張を十分聴き、どのように理解したかを伝え返し、その上で靖国神社に参拝したいという自分の信念を相手に伝える努力が必要だ」と言いたいのです。これはまさにアサーティブな態度であり、I am OK,You are OK の態度です。小泉首相の現在の態度は残念ながら、I am OK,You are not OK の態度です。自分は大事にするけれど相手は大事にしないという態度であるのは明らかです。

 中国や韓国の態度もアサーティブではありません。しかしながら、アサーティブでない者に対して最もよいコミュニケーションがとれる可能性が高いのが、アサーティブな態度です。個人レベルではアサーティブな態度の必要性が認識されつつありますが、外交レベルになるとまだまだ軍事力や経済力などの力を背景に他国を動かしたいという考え方が主流のようです。(佐々木)
 


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「兄弟喧嘩」          平成17年6月19日 第108号に掲載

 二子山親方(元大関貴ノ花)の死をきっかけに、貴乃花親方と兄勝氏との確執が表面化し、貴乃花親方は連日ワイドショーに生出演して兄を非難する一方、勝氏の方は沈黙を守ったままという騒動が起きています。コメンテーターや芸能人が、「他人を批判するのはよくない」とか「見ているのがつらい」、「喧嘩はするべきでない」などという意見や感想を述べています。「貴乃花親方は世論を味方につけようとしている」、「勝氏も堂々と反論すべきだ」などという見方もありますし、このような個人的な兄弟の確執で大騒ぎする国民性を憂える意見さえ出ています。

 あるラジオ番組で貴乃花親方のこの行動は是か否かという調査を聴取者におこなったところ、ほぼ七割の人が支持しないという結果が出ました。例え貴乃花親方の主張することが事実であったとしても、表だって他人を非難することや身内の恥を外部にさらすということが日本の国民性に合っていないのかもしれません。

 皆さんはこの騒動を見聞きしてどのようなことを感じたでしょうか。貴乃花親方の言うことはもっともであり、勝氏はひどい人だと思うでしょうか。それとも貴乃花親方の言動こそ受け容れがたいと思うでしょうか。どちらにしても、それは自分自身の認知がそう思わせているのであり、どのように感じるのかで自分自身を知る良い機会です。

 貴乃花親方の熱烈なファンであると、ハロー効果により、主張していることがより真実らしく思えて、勝氏が何かひどい人のように思えるかもしれません。また、間違ったことをしていないのなら正々堂々と発言すべきだなどという認知の歪みがあれば、やはり貴乃花親方の肩を持ちたくなるでしょう。人の悪口は言ってはならないあるいは兄弟喧嘩はすべきでないという思い込みがあれば、貴乃花親方の言動は不快に思えるかもしれません。

 さて私はと言えば、個人の私生活にはあまり関心がないのですが、貴乃花親方はよほどしゃべりたかったのだろうなということを一番に感じました。前々から二子山親方も貴乃花親方もずいぶん自分を殺してきたんだろうなということは思っていました。自分を殺すというのは比喩ですが、ストレスを溜め込んで実際に寿命を縮めます。二子山親方の癌もこのストレスで悪化したのではないかと睨んでいるのです。ですから、二子山親方の死によって貴乃花親方の抑圧が取れ、今まで言えなかったことが言えるようになったのではないかなと思ったわけです。

 そして、貴乃花親方は勝氏の行為が許せず、それは勝氏が悪いからだと考えているようです。だからこそ自分の正当性を多くの人に支持してもらうことにより、勝氏に間違ったことをしているということを自覚してもらい、行動を改めてもらいたいと考えているのではないかなと思います。ただ、他人なら許せなくても兄弟なら許せることが多いわけですが、逆に、許せないから兄弟ではないという決めつけも感じます。

 これはあくまでも私の認知による思いであり、事実ということとはまったく違います。実際のカウンセリングでは、話しを聞いて心に浮かんだこのような仮説を、一つひとつ確認しながらより理解を深めていきます。ズレがあれば修正し、だんだんと貴乃花親方が本当に言いたかった思いを正確に理解していきます。一方的な情報なのでこれ以上の確認はできませんが、もし、否定的な感情が浮かんだり、絶対こうに違いないという決めつける気持が浮かんだとすれば、それは認知の歪みによるものです。どこからそのような思いが生まれるのか、良い機会ですからぜひ考えてみてください。(佐々木)  


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「少年犯罪とアサーション」       平成17年7月05日 第109号に掲載

 明徳義塾高校3年の生徒がナイフで同級生を刺したり、中学1年の兄が小学5年の妹をバットで殴ったりと、少年の凶悪な暴力犯罪が立て続けに起こっています。覚醒剤や援助交際も日常化しています。このような少年の犯罪がなぜ起こるのでしょうか。家庭や学校や友人関係が影響していることは想像できますが、犯罪が起きないようにするには、それらがどうなっていればいいのでしょうか。ナイフで友人を刺すなどの攻撃的な行動を起こす少年は、日頃から攻撃的な場合もあるでしょうし、日頃は大人しいいじめられっ子が突然切れて、反撃に転じるという場合もあります。このような現象を見ると、私はいつもアサーションということを思い出します。

 対人関係における自己表現のタイプには、自分は大切にするが相手を大切にしない攻撃的(アグレッシブ)な自己表現、相手は大切にするが自分を大切にしない非主張的(ノン・アサーテイブ)な自己表現、自分も相手も大切にするアサーティブな自己表現の3つがありますが、ナイフで他人を刺すという行動は、まさに攻撃的な自己表現の極地でしょう。勿論、他人を傷つけることは法律的にも倫理的にもいけないことですから、警察や社会はこれを抑制し、このようなことが起こらないように圧力をかけます。その結果、学校や家庭において攻撃的な自己表現はいけないことであり、非主張的な自己表現こそが良いという誤解が生まれてしまいます。

 日本では自他ともに尊重するというアサーションの概念が希薄ですが、これは主君のため、国のため、家のためという教育が長い間なされてきたために、いたしかたがないことです。アサーションに相当する単語が存在しないということがこれを物語っています。主君、国、家が攻撃的であっても、それに従うものが非主張的であれば、何も問題は起きなかったのですが、戦後、個人の権利が憲法で保障され、民主主義社会となってから誤解が生まれ始めたように思われます。

 つまり、個人の権利というものは、他人の権利とのせめぎ合いの中で存在するということに思いが至らず、無制限に自分のやりたい放題に自己主張してよいのだと勘違いする人が生まれてしまったのです。もちろんこれは他人の権利を侵食する攻撃性です。だから自己主張はいけないことだ、他人を思いやり、他人の権利を侵食しないように行動すべきだという反動が生まれてしまうのですが、実はこれも攻撃性を生む原因になっているのです。

 攻撃的な自己表現と言っても、暴力をふるうことばかりではありません。これは相手を尊重しないということであり、他者否定的・操作的・自分本位・相手に指示・優越を誇る・支配的・一方的に主張する・責任転嫁などという態度がすべて含まれます。泣きわめいて自分の思い通りにさせようとする、黙りこくって圧力をかける、嫌みを言うなどということもこの攻撃的な自己表現の一つなのです。

 強い相手や権力のある相手に対して、私たちは非主張的になりがちですが、このとき、権利はあるのに権利を使えないというストレスが溜まってしまいます。そこで、弱い相手、立場が下の相手に対して攻撃的になるということでバランスをとるということがしばしば見られます。会社で上司に叱られ、部下に八つ当たりしたり、家に帰ってから子供に八つ当たりする、学校で強いものからイジメを受けて、別な場所で自分より弱い者にイジメを仕返すなどということをする場合があります。これがエスカレートすると、幼児殺害などということになります。

 あるいは、ずっと非主張的な態度をとっていたものが、我慢の限界を超して、攻撃的になるということもあります。いじめられっ子が、いじめっ子に転ずるというのもそれであり、日頃イジメを受けていた少年がナイフでいじめっ子を刺すというケースがまさにそうなのです。(佐々木)  


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「少年犯罪とアサーション2」   平成17年7月21日 第110号に掲載

 攻撃的な自己表現と非主張的な自己表現に共通するのは、人間軽視という態度です。相手を軽視すれば攻撃的になり、自分を軽視すれば非主張的になります。もちろん、常に人間軽視がおこなわれているわけではありません。尊敬できる相手に対しては軽視するはずがありません。また、自分自身に尊敬できる部分があれば、その範囲内では自分を軽視しません。従って、お互いに尊敬しあう人間関係の中では、私たちはアサーティブに振る舞っているはずです。それは、日頃暴力を振るうような人であっても同じことです。これは非常に重要なことです。なぜなら、社会全体がお互いに尊敬しあう関係であれば、攻撃性は表に現れて来ないということ、つまりこれを目標にできるからです。

 では、社会の中で、そのようなお互いを尊敬するような関係ができるように、
教育がおこなわれているのでしょうか? 残念ながら、そのような教育がおこな
われておらず、人間軽視を助長するような教育がおこなわれているからこそ、問
題が起こるのではないでしょうか。暴力を振るう少年に対し、周囲の大人は、暴
力がいけないことだと言い聞かせ、二度と暴力を振るわないように罰を与えます。
この最も当たり前のような対応のどこがいけないのでしょうか?

 「暴力がいけないことだ」というのは当然です。しかしながら、「言い聞かせる」ことが問題です。これは相手を操作しようとしており、相手を軽視した攻撃的な態度です。また、「二度と暴力を振るわないように」という思いは良いのですが、「罰を与える」ことは、これもやはり、罰を与えることによって矯正しよう、操作しようという、相手を軽視した攻撃的な態度なのです。つまり、暴力を振るう少年に対し、相手を軽視した態度で、暴力はいけないことだと教えていることになります。これでは、暴力はいけないことだということはわかったとしても、相手を軽視すること自体は良いのだというメッセージを、身をもって教えられたということになってしまいます。

 暴力を振るう少年は、教育してくれた大人を尊敬しないことはもちろん、相手を軽視する態度が身についてしまうのも当然です。相手を軽視する態度からは攻撃的な自己表現、つまり攻撃性が生まれます。強がり、他者否定的、自分本位、支配的、責任転嫁などの態度が生まれ、暴力を振るう素地が強化されてしまいます。また再び暴力を振るうのは目に見えています。暴力を振るわない少年も、同じ教育によって、やはり他人を軽視する態度を学んでいきます。

 人間性を軽視した大人、つまり攻撃的あるいは非主張的な大人からは、やはり人間性を軽視した子供が育つのです。今、子供たちに必要なのは、人間を軽視してはいけないという教育です。それは攻撃的、非主張的におこなわれてはなりません。つまり、アサーティブな態度でおこなわれなければならないのです。アサーティブな環境、つまり自分を大切にし、相手も大切にするという環境の中で、本人自らが暴力はいけないことだと気づける教育こそが必要なのです。

 それには教育する大人自らがまずアサーティブになっていなければなりません。しかしながら、現在の日本の社会の中では、アサーティブな態度をとれる人は極めて少ないのが現状です。まず自らが、自分を大切にし、他人を大切にするということはどういうことなのか、そして人間とは何かを学ぶことが必要だと思うのです。最近はアサーション・トレーニングも一般化してきましたが、アサーションという概念が認知され、一人でも多くアサーティブに振る舞える人が増えることによって、社会は段々と良い方向に向かっていくということを信じています。
(佐々木)


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