心意雑感 

サイコロネットメールマガジンに掲載された、心に関する雑感です。

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No61〜No70

「摂食障害の治療」      平成15年7月1日 第61号に掲載

 6月30日の読売新聞夕刊に「摂食障害に初の指針」という見出しで、拒食症や過食症など摂食障害の治療について、厚生労働省研究班が初の指針をまとめたことが報じられていました。指針では、拒食症により体重が大幅に減っている場合は、薬だけよりも、入院して行動を管理する治療の方が有効であるとし、ビタミン、ホルモン、電気ショックなど、各単独の治療法による有効性は未確認としています。また、体重が急激に減り続けている時に、話を聞いて助言をするような個人精神療法が有効との証拠はないとしています。過食症では、患者の体形に関する認識を変えていく認知行動療法のほか、抗うつ薬の投与が有効であるとし、これらの治療法の組み合わせで効果が上がるとしています。

 メール相談でも時々摂食障害の相談があるのですが、多くの場合、病院へ行くことを勧めています。それは入院や投薬が必要だと判断してのことですが、病院へ行ったとしても、必ずしも適切な治療が受けられるとは限りません。指針でも、効果や裏付けもないまま、病院によって手法も投薬もばらばらの治療がおこなわれている現状を指摘しています。それでも現状は病院に頼らざるを得ず、このような指針が出ること、つまり、有効か無効かの検証がおこなわれることは非常に有意義なことだと思います。

 この指針の中で、「体重が急激に減り続けている時に、話を聞いて助言をするような個人精神療法が有効との証拠はない」という一文がありますが、これはカウンセリングはいつも効果がないということを言っているのではありません。体重が急激に減り続けている時には、入院の措置をとったり、薬を飲むことは当然必要なことであり、これらをせずにカウンセリングのみに頼ろうとすることに釘を刺しているのでしょう。

 実際問題として、摂食障害の場合でも対人恐怖や病院恐怖が伴うことも多くあります。そのために、治療が遅れて重症になってしまうことも多いのです。少なくともカウンセリングやメール相談は、病院へ行けない人を何とか行けるように勇気づけるという役割を担っていることは確かです。(佐々木)


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「テレビの気になった発言」   平成15年7月16日 第62号に掲載

 長崎市で起きた4歳の幼稚園児が誘拐され、パーキングビルの屋上から突き落とされ殺害された事件で、12歳の男子中学生が補導されました。連日ニュース番組やワイドショーでこの問題がとりあげられ、教育関係者や心理学者のコメントを放送しています。少年法の見直し論や加害者をそこまで追い込んだ社会のシステムの問題点などが指摘され、それはそれで考えなければならない問題だろうと思います。そのうえ、「少年自身の罪が問えないなら、親なんか、市中引き回しで打ち首にすればいい」とう現職防災相の発言が物議をかもしています。色々と考えさせられる事件ではありますが、今回は、この一連のテレビ番組でのコメンテーターの発言にちょっと気になった部分がありましたので、これをとりあげたいと思います。

 「性被害は女性ばかりでなく男子にもあり、アメリカではデータが蓄積されているが、日本では認知されていない。カウンセリングを電話でおこなっているところがあるが、6歳の男子が性的な被害を訴えても、いたずらだと思われて電話を切られてしまった。」という内容です。「日本では幼い男の子に対する性被害は認知されておらず、カウンセラーでさえ認めていない」ということを言っています。前段はその通りだと思いますが、カウンセラーが云々というのは疑問だと思いました。確かに6歳の男子が性被害を電話で訴えたけれど、聞いてもらえなかったということは事実としてあったかもしれません。しかしながら、ここには色々な誤解が存在しているように思えます。

 まず、電話で性被害者の訴えを聞くことをカウンセリングと思いこんでいるのではないかということです。どこに電話をしたのかわからないので曖昧な部分もありますが、いのちの電話やこころの電話などの相談機関で相談を受けている人は、カウンセラーではありません。たとえ相談員がカウンセラーであったとしても、良き隣人として話を聞くのであって、カウンセリングをしているわけではありません。また、電話で話を聞くときの態度として、たとえいたずらだと思っても、いたずら電話をかけなければならなかったその子の気持ちをわかろうとするのが基本です。6歳であろうが、4歳であろうが、それは関係ないはずです。カウンセラーであればなおのこと、必要な態度でしょう。

 ただ、基本的な態度が身についていない電話相談員やカウンセラーがいることは事実だと思います。しかしながら、それは人の話を聞く基本的な態度が身についていないだけであり、幼い男の子の性被害を認知していないということとは関係がないのです。男の子の電話を受けた人が、専門に性被害を扱う相談機関のカウンセラーだとして、そのカウンセラーが幼い男の子の性的虐待が世の中に存在するということを認識していなかったとしても、子供が訴えを聞いてもらえず、いたずらだと思って電話を切られたというふうに感じたとすれば、それは単に人の話を聞くという態度の未熟さのゆえではないでしょうか。

 確かに日本では幼い男子の性的虐待があるということは認識されていないと思いますが、同時にカウンセラーについても認識されていないということを強く感じました。(佐々木)


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「あなた」          平成15年8月1日 第63号に掲載

 匿名で来たメール相談の回答を書くときに「あなた」という言葉を使うか使わないかということがちょっと話題になったのですが、実は、私はかなり昔から一人称や二人称にどういう言葉を使うかは意識していたのです。皆さんは子供の頃、自分や相手のことを何と呼んでいましたか?

 私は、自分のことは「ぼく」、母親は「お母様」、父親は「お父様」、姉は「お姉様」と言うように躾けられていました。「さん」ではなく「様」を使うように躾けられたわけです。二人称としての「きみ」という言葉は滅多に使うことはなかったように思います。必ず「○○君」というように苗字で呼んでいました。この習慣は結構長く続きました。社会人になったとき、意識的に自分のことは「わたし」と言うように変えましたが、最初は違和感があったことを覚えています。家族や親戚は相変わらず「○○様」でしたが、これは嫌な感じがするようになりました。でも、急に「さん」づけにするのも気が引けて、どちらもあまり使わなくなったような気がします。二人称や三人称は「○○さん」と言うようになり、代名詞の「あなた」や「彼」という言葉はほとんど使う機会がなかったように思います。

 私の子供達にも「お父様」と呼ばせていましたが、小学校に入ってしばらくすると、みんながそう呼んでいないことに気づき、いつしか「お父さん」に変えられてしまいました。妻は私のことを「あなた」と呼んだことはなく、子供ができてからは、しっかりと「お父さん」と呼ぶようになってしまいました。そういえば、私自身も子供が少し大きくなってからは、母親のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになってしまいましたが、子供の呼び方に合わせて落ち着いてしまったのです。

 このように、相手をどう呼ぶかはどのように躾けられたかとか、周囲の人がどのような言葉を使っていたかで変わってくるもののようです。その中で「あなた」とか「彼」は使いにくい言葉です。それは、やはり使い慣れていないせいかもしれませんし、もっと深い文化的な背景があるのかもしれません。

 ここで私は、先月の学習会のテキスト「自己の構造」の一節を思い出しました。『「我が輩は猫である。名前はまだない」という漱石の「名前はまだない」が、どんなに重要な意味を象徴し表現しているかを感得し理解しうる人は、きわめてまれであるからです』

 匿名の相談者は「名前のない人」です。「名前のない人」に対して「あなた」と呼びかけるかどうかは別として、そこには重要な意味があるような気がしませんか? テキストの一節とともに考えてみると勉強になるかもしれません。(佐々木)


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「あなた2」         平成15年8月16日 第64号に掲載

 学生時代に相手のことを「おぬし」と呼ぶ人がいました。私自身も「きみ」とか「あなた」という言葉を使うことはほとんどなかったのですが、「おぬし」にはびっくりしました。しかしながら、使っている本人はすごくまじめでした。考えてみれば、「おぬし」に限らず、「きみ」も「あなた」も「おまえ」も、もともとは相手に対する尊称もしくは目上に対して使われた言葉です。それがいつしか、上位者には使われず対等もしくは下位者に対して使われるようになったのです。日本では、対等ということよりも相手をたてることが大切にされてきたので、本来の意味より、より丁寧な言葉が好んで使われる結果、このような状態になったのでしょう。

 「おたく」という言葉がひところ流行りましたが、これはもちろん、二人称に「おたく」という言葉を好んで使うところから付けられた名前です。おたくという人々がなぜ「おたく」という言葉を使うようになったのかは知りませんが、「あなた」という言葉を使いにくかったことは確かでしょう。「あなた」という言葉には、相手に対する呼びかけという意味のほかに、さまざまな意味が含まれており、これが人によっても時代によっても変わるということなのでしょう。

 これは「あなた」という言葉に限らず、あらゆる言葉について言えることです。言葉の意味、すなわち概念はすべての人に共通しているようで、実は人によって違うのです。それ故、相手を正しく理解しようとすれば、相手の使った言葉をそのまま使うしかないのです。カウンセリングおいて、オーム返しで相手の言っていることを返すのもそれなのです。自分の言葉に代えてしまうと、相手の言いたいことと微妙に違ってしまうことがあります。

 「我が輩は猫である。名前はまだない。」の「猫」は一般名詞ですから、猫という共通する概念もありますが、人によって違う意味合いも持っています。しかしながら、もしそこに名前がついたならば、その名前の意味するところは何でしょうか? それは今ここでこの文章を書いている「佐々木均」という名前の意味するところと同じことでしょう。しからば「佐々木均」とは一体何者でしょうか?「あなた」という言葉を考えているうちに、自己の構造について思いが及んでしまいました。(佐々木)


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「指摘ということ」          平成15年9月1日 第65号に掲載

 一般の教育では指摘ということが盛んにおこなわれています。できない点を指摘し、できるようにするという方法が用いられます。テストをするのも、できない点を明らかにするということが目的です。テストでできなかったところをもう一度復習するという勉強をすれば、実力が付き、総合点は確実に上がるでしょう。欠点を補うという勉強方法ですね。一方、欠点には目をつぶり、良いところを伸ばそうとする教育法もあります。できないことには注目せず、できることを伸ばすことによって総合点を上げようとする方法です。

 ところで、多くのカウンセリング、特に来談者中心のカウンセリングでは、指摘したり、評価したり、アドバイスすることはありませんが、これはどうしてでしょうか?来談者中心療法では、クライエント自らが気づき、解決方法を見つけだす機会を奪ってしまうからという理由がありますが、どうもそればかりではないような気がします。一般的には「指摘し、評価し、アドバイスして」効果を上げているケースも数多くありますし、カウンセリングでも、場合によっては効果を上げることがあります。では、どのような場合に、「指摘し、評価し、アドバイスして」も良いのでしょうか?

 私は、「指摘、評価、アドバイス」が勇気くずしになっているのではないかと考えています。アドラーの言う「勇気」を一つのエネルギーと考えるとよく理解できると思います。私たちが困難に立ち向かえるのは「勇気」があるからです。「勇気」というエネルギーを使って困難を克服すると、新たな「勇気」が湧いてきます。挫折すると「勇気」がくじかれます。他人から「勇気づけ」をされると「勇気」が増えます。他人から「勇気くずし」をされれば「勇気」が減ります。また自己受容している人は、自ら「勇気」を作り出せます。

 できていることや良い面を指摘するのは「勇気づけ」になりますが、欠点を指摘することは、劣等感を刺激し「勇気くずし」になります。欠点を指摘されても十分に「勇気」を持った人であれば、いったんは「勇気」のエネルギーを消費しますが、欠点を克服して、あるいは自己受容を進めて「勇気」が回復し、逆に「勇気」が増えるでしょう。悩みを持った人は、実は「勇気」が不足している人ですから、欠点の指摘は「勇気くずし」により「勇気」を消費してしまい、困難を克服しようとするエネルギーはさらに減ってしまいます。どれだけの「勇気」を持っているかは、人によって全然違いますから、欠点の指摘が効果を上げたり、それによって落ち込ませたりするわけです。評価とアドバイスについても同様のことが言えるでしょう。

 スーパーバイザーの指摘が時として逃げ出したくなるほどきつく感じるのは、勇気を作り出す自己受容そのものができていないことに気づかされてしまうからではないでしょうか。(佐々木)


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「指摘ということ2」       平成15年9月16日 第66号に掲載

 欠点を指摘することは勇気くずしになりますが、長所あるいは美点を指摘することは勇気づけになります。これは過去の否定的なできごとが現在の悩める状態を作るという原因論と、現在はいかに悩んでいようとも未来の目標に向かって良くなっていけるという目的論にも対応しています。過去の原因を指摘すれば現在の状況を説明することはできますが、将来どうしたら良くなれるかまでを知ることはできません。現在の良い点を指摘するということは、過去の原因には触れず、将来のより良い方向づけをするということです。

 欠点や美点が明らかな場合は、そのような意図を持って指摘することができま
すが、欠点か美点かわからない現実を指摘するということはどうでしょうか。もしあなたが、誰かと話をしているときに、「あまりしゃべらないのですね」としゃべらないという事実を指摘されたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。

 何かしゃべらなければいけない、場を盛り上げなければいけないと思っていたとすれば、痛いところをつかれたとズキンとくることでしょう。今日は聴くことに徹し、できるだけ自分の意見は言わないでおこうと思っていたとすれば、その通りにできたなと嬉しくなるかもしれません。このように指摘されたことを欠点とみるか美点とみるかは本人の受け取り方次第ではないでしょうか。 つまり、事実の指摘は常に相手の勇気をくじく可能性も秘めているということです。相手のことがまったくわからないうちに、事実を指摘するということは、キズつけたくない相手をキズつけてしまうかもしれないという、危険な行為なのです。

 もし、「あまりしゃべらないのですね」という代わりに、「話をよく聴いてもらっていると思います」と言われたらどうでしょうか。聴くことに徹しようと思っている人はもちろん、何をしゃべろうかと必死になっている人も、嫌な気分にならないはずです。ありのままの自分を受け入れてくれるという勇気づけになっているからです。「もう少しあなたの話を聞きたいと思います」という言葉も、「あなたはあまりしゃべらない人ですね」と言われるより、否定的な感じを与えません。これはわたしが主語になっているからです。直接相手がどうであるかを指摘すること、つまり「あなたメッセージ」よりも私はどう感じたかということを話す「わたしメッセージ」の方が人間関係をよりよい状態にします。(佐々木)


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「幸福の条件」          平成15年10月1日 第67号に掲載

 私たちがカウンセリングやセラピーをするのは、クライエントに対して少しでも幸せになってもらいたいと思うからです。では、幸せになってもらうためには一体どうしたらいいのでしょうか? 幸せになるためにはどのような条件が必要なのでしょうか?

 お金が幸せになるための条件になることがありますが、それは私たちがお金を欲しいと思っている場合に限られます。十分お金を持っていてそれ以上欲しくないとすれば、さらにお金を手に入れても幸福感は得られないでしょう。それは愛情や健康などについても同様です。つまり本当に自分が望んでいることを達成すること、ひいては本当に自分が望んでいるのは何かということを知ることが必要です。カウンセリングをしていると、自分自身が何をしたいのかわからない人にも結構出くわします。

 本当に自分が望んでいることがわかったとしても、それをどうやって手に入れるか、どうやって達成すればいいのかがわからないと意味がありません。方法論、望みを達成するためのスキルも必要です。お金が本当に欲しいとしてもそれを手に入れる方法がわからなければ、お金は手に入らず、幸福感も得られません。悩みを抱えている人は、その悩みを解決する方法がわかっていません。人間関係についても、生き方についてもスキルがあるのです。

 本当に自分が望んでいることがわかり、どうすればそれを得られるかがわかっても、実際にそれをやらなければ幸福は手に入りません。それをやるためには一歩踏み出す勇気、やり遂げる勇気が必要です。病院に行ったりカウンセリングを受ければ良いということがわかっていても、それができない人がたくさんいます。病院恐怖や対人恐怖などによって勇気が失われても、できなくなってしまいます。

 さて、このように考えてみると、カウンセリングに限らず、悩みの相談に応えるにはどうしたらよいのかが見えてきます。自分自身のことがわからないで悩んでいる人には、本当の自分に気づかせるカウンセリングやグループワークが有効でしょう。人生の生き方がわからないで悩んでいる人には、生き方を教えるカウンセリング、人生相談、コーチングなどが必要でしょう。勇気がなくて悩んでいる人には、勇気づけのカウンセリングが有効です。傾聴というのも勇気づけになります。

 実際には、これらの悩みが単独で現れるわけではなく、同時におこっているはずです。人生相談やカウンセリングを受けて傷つけられたという声を聞くことがありますが、生き方のスキルを教えるのみで勇気づけがおこなわれなかったからでしょう。また、カウンセリングを受けても話を聴いてくれるだけで何のアドバイスももらえず不満だという声も聞くことがありますが、それは勇気づけはしていても、スキルを教えていないからでしょう。特定の技法しかできないと、往々にしてクライエントから不満を訴えられることがあります。クライエントが何を望んでいるのか、何に悩んでいるのかを知り、最適な技法を適用することが、クライエントを幸福にするもっとも近道だと思うのですが、いかがでしょうか。(佐々木)


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「幸福の条件2」          平成15年10月16日 第68号に掲載

 自立した人が最も時間を費やすのが生活の糧を得るための仕事(職業)です。仕事をしていて楽しいことほど幸せなことはありません。中には仕事をしていてつらくて仕方がないという人もいることでしょう。それでは、幸福になるための職業に就くということに、前回述べた幸福の条件である「自分が本当にやりたいことがわかっていること、実現するスキル、勇気」の三つの条件を当てはめて考えてみましょう。 

 給料が高くて楽な仕事をしていれば幸福になれるというものではありません。やはり本当に自分がやりたい仕事、やっていて生き甲斐を感じられる仕事を選びたいものです。その上で給料が高く、楽であれば言うことはないでしょう。どのような仕事が自分に向いているかは適性検査によって調べることができますが、自分自身の思考形態・行動特性を知ること、つまり自分自身を知ることにより、本当の自分のやりたい仕事を見つけることが必要です。企業の中では必ずしも自分がやりたい仕事に就くことはできないかもしれませんし、むしろ嫌な仕事をやらされるということもあり得ます。

 本当にやりたい仕事がわかったとしても、どうやってその仕事に就くのか、就職先の探し方、履歴書の書き方、面接の仕方などのスキルの有無によって就職率に差が出ます。就職のためのセミナーでは、このようなスキルを教えてくれますので、機会があれば勉強しておくと良いでしょう。企業の中で自分のやりたい仕事をやらせてもらえるように働きかける方法もスキルのひとつです。

 やりたい仕事がわかり、どうやって実現するかの方法がわかったとしても、様々な障害によって私たちは容易に挫折してしまいます。まず、必要な経験がない、必要な資格を取るのにお金がかかり過ぎ、勉強する時間もないということで躊躇してしまう人もいるでしょう。競争率が高いということで最初から諦めてしまう人も多いでしょう。就職しても給料やその他の待遇が悪いことに耐えられそうもないと思ったり、漠然とした不安のために踏み切れないということもあるでしょう。これらはみな勇気不足から起こることです。一歩踏みだし、目標を達成するまでやり遂げる勇気が必要なのです。

 キャリアカウンセリングという職業や進路に関するカウンセリングがありますが、実はキャリアカウンセリングでは、この三つの条件に基づいてより良い職業に就けるように援助がおこなわれているのです。そして、それをシステム化したビジネスも急成長しています。適性検査と面接で自分自身が本当にやりたいと思っている仕事が見つけだせるように援助することから始まり、就職先の探し方、具体的な履歴書の書き方や面接の心構えまで指導してくれます。もちろん、カウンセリング技術を使った勇気づけもおこなわれます。

 目的を就職活動に限定しており、需要があるからこそシステム化できることですが、一般の相談事業やカウンセリングにおいても参考になるはずです。ただ、カウンセリングやセラピーでは心の悩みが強い人、すなわち勇気が非常に不足している人が対象になりますので、勇気づけが主体になることは言うまでもありません。
(佐々木)


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「泳げないということ」        平成15年11月1日 第69号に掲載

 先日テレビで「秘伝!カテイの魔法『運動オンチが直る』という番組を見たのですが、とても興味深く、感じるところがありました。内容は「キャッチボールが上手にできない、跳び箱がうまく飛べない、縄跳びの二重飛びができない、50メートル走が遅い、泳げない」という子供たちをミラクリストが魔法を使ってできるようにするというものでした。全員が上手にできるようになって、すごいなと思いました。最後にそれぞれの魔法の種明かしがあるのですが、なるほどと思うと同時にできない子はいないのだなと強く感じました。

 実は私自身も小学生のころ水が怖くて全然泳げなかったのですが、ある先生に教えてもらったのがきっかけで、水が怖くなくなり泳げるようになった経験があったからです。私が通っていた小学校にはプールがなかったので、夏休みに隣の学校に行って、集中的な水泳教室が行われていました。私はプールの縁に手をかけてバタ足をすることはできましたが、怖くて手を離すことができなかったのです。泳げなかったころは、仮病を使って休んだりもしましたし、検定のときは毎回一人だけ無級と発表されて、とても惨めな思いをしました。そのような状況が何年間か続いたのですが、一クラスが50人を越える時代でしたから、それでも放って置かれたようです。

 あるとき、私が好きだった前年の担任の先生が私に指導してくれました。プールの縁の代わりに先生の手につかまってばた足をするように言ったのです。これは簡単にできました。そして息が苦しくなったら、手で水をかいて立つように言われました。先生の手を離すことは怖かったのですが、手で水をかけば必ず足が底について立てるからと言う言葉を信じてやってみました。おもいきってやってみると、水の中で足が底について立つことができました。地に足がついていないと言う言葉がありますが、まさに私はそのような状態から戻れないということを非常に怖れていたようです。

 いつでも苦しくなったら手で水をかいて立つことができるということがわかると、恐怖心は一気に薄れました。先生の手につかまってやっていたばた足を、先生の手につかまらずに、ちょっと離してばた足をやることもすぐできるようになりました。つまり泳げたのです。いつでも苦しくなったら水中で手をかいて水を押しやると、その反動で足が自然に下に来て、立つことができるということがわかり、さらには信頼できる先生がいつでも助けてくれるという安心感で、水に対する恐怖心がなくなりました。つまり、私は泳げなかったのではなく、水の中に沈んで息ができなくなることを怖れ、泳ごうとしなかったのです。

 だから、いくら先生から技術的な泳ぎ方を教わっても泳げるようにならなかったのです。泳げるようになるためには、泳ぎ方というスキルも必要なことですが、その前に、泳いでみようという気持ちにさせるための勇気づけが必要なのです。その中にはやってみようと言う励ましもありますが、恐怖心を取り去るというスキルも含まれるのです。

 その後、個人的に指導してくれる先生がいなかったため、技術的にあまり上達しませんでしたが、高校に入ってから、私は自分のために夏休みの水泳講座に通い、ようやく人並みに泳げるようになったのです。そう、私は自分で自分の勇気づけをしたのです。(佐々木)


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「泳げないということ2」       平成15年11月16日 第70号に掲載

 「秘伝!カテイの魔法『運動オンチが直る』という番組で泳げない子供を全員泳げるようにした方法は、シュノーケルを口にくわえて、ごく浅い風呂で這うようにして泳ぐ練習をするというものでした。泳げない子は浮く感覚がわからないということで、まず身体をお湯の中で横にして、浮いてみるということをやっているわけです。非常に浅いので、お湯の中で這いつくばることはすぐにできます。怖ければ手をついてすぐにお湯の中から身体を出すことができますので、安心して練習できるわけです。安心できると身体に余分な力が入りませんので、沈もうとしても身体が自然に浮いてしまいます。こうして身体が浮く感覚がわかれば、後はもう少し深いところで同じように浮いてみる、シュノーケルを使わずに浮いてみる、ということがすぐできるようになります。浮くことができれば、後はばた足と手で水をかくという技術の問題だけですから、時間の問題です。

 この方法のポイントは番組では特別説明していませんでしたが、徹底的に恐怖心をなくしているということではないでしょうか。水に対する恐怖心というのは、「息ができなくなって死んでしまうのではないか」という恐怖が根底にはあります。だから水の中に顔をつけることは怖いし、足を地につけていないことが怖いのです。「水の中に沈むと、決して息をすることができない」「水の中では水底に足をつけていないと必ず沈んでしまう」「自分は決して泳げるようにはならない」などという誤った信念が、さらに恐怖を強固なものにしてしまいます。この恐怖心が起こらないようにシュノーケルを使い、非常に浅いお風呂で横になるというところから初めているのです。

 泳げない人を泳げるようにする方法はいくつか考えられます。泳げない人を無理矢理海に投げ込むという方法もその一つでしょう。そして番組で紹介していた方法です。この二つを両極端として、泳げない人の勇気の度合いに応じて何をやらせるかでいくつかの方法が考えられるわけです。小学校で教える方法はある程度以上の勇気がある人を対象にしたやり方ですから、それ以下の勇気しかない人には難しいのです。だから私も泳げるようにはならなかったのです。

 恐怖心があると、泳ごうとしても身体がこわばって、泳げるものも泳げなくなってしまいます。これは泳ぐことだけではなく、あらゆることに言えるのだと思います。もちろん恐怖症も同じです。むしろ、恐怖症の方がその典型と言えるのではないでしょうか。泳げなくても日常で困ることはありませんが、恐怖症の場合は日常生活に支障をきたすことに怖れを感じるのでやっかいです。でも、水に対する恐怖心をなくして泳げるようになるように、恐怖心を取り除くことは可能です。実は、テレビ番組で紹介していた方法は恐怖症の治療に使われる脱感作療法そのものなのです。恐怖心を感じないことからやって段階的に自信をつけるということが、恐怖心を克服するポイントです。どこに恐怖を感じているかを把握し、恐怖を助長している誤った信念をうち砕くことが怖くてできないことを克服するカギなのです。(佐々木)



 

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